ミセスGのブログ

海外ドラマ&映画の感想、世の中のお話

「この世から差別がなくなることはない」と断言する理由

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差別のない世界は、誰もが望むユートピアである。

だが、この世から差別がなくなることはない。

 

異質なものへの警戒心、恐怖心は人間の本能である 

差別の根底には、異質なものへの警戒心、恐怖心がある。それは人間なら誰でも持っている、生存本能によるものである。

UFOや異星人(エイリアン)を初めて目にしたときに「仲良く暮らしましょう」と警戒心も恐怖心もなく共生しようとする人間はいないはずだ。人間が異質なものを初めて見たときに抱くのは、警戒心、恐怖心である。

顔の造形、身体の作り、肌の色、髪の色、目の色、 違う言語を話す者、何から何まで自分と異なる相手は、それこそ異星人といっていいほど、自分とは異なる存在だ。異質なものに警戒心、恐怖心を抱くのが人間の心理として当然なのである。

(アメリカのイミグレーションでも、「外国人」の列は「alien(エイリアン)」という言葉が使われているのが興味深い。)

我が娘はほとんどアメリカ生活なので、白人、黒人、ヒスパニック系、アジア人、インド系などなど、異なる人種に毎日触れているので、日本人の子どもたちに比べて多人種への恐怖心や警戒心は圧倒的に少ないはずだ。

日本に一時帰国したとき「ママ、日本は、髪の毛がみんな黒いだね。ブロンドの人もいないし、黒人もあまりいないだね」と素直に口にしていた。

娘の学校に敬虔なイスラム教の家族がいる。2名くらいだろうか、全身黒ずくめの二カーブを着ている母親がいる。アメリカでは髪の毛だけを隠すカジュアルなイスラム教徒のほうが多いのだが、この方たちは頭も顔もすっぽり隠していて、目だけ出している状態なので、私もめったに見かけない姿だ。

彼女たちを初めてみた私の娘から「creepy(気味が悪い、ブキミ)」という言葉が出たことがある。これは異質なものに警戒心・恐怖心を抱いた、娘の本能からでた本音である。全身を隠した人間を見たことがない娘にとっては、彼らは異質に見える。娘には、それが彼女たちの伝統的な着衣であることを教えた。むろん、母親がニカーブをかぶっていれば、その娘はニカーブをcreepyと思うことはない。母親が着ていなくても、ニカーブを見る機会が多いエリアであれば、creepyと思うことはないだろう。

人間は、自分と見た目が同じであったり、同じ料理を食べたり、価値観や考え方を共有するグループにいるほうが居心地が良い。そのため、人種別に分かれて行くのは自然なことなのだ。多人種国家アメリカでも、白人は白人、黒人は黒人、ヒスパニックはヒスパニック、アジア人はアジア人とまとまって生きている。

見た目、価値観、言語アクセント、マナー、文化的背景、教育程度、生活習慣、食べ物が似ている人と群れれば、不必要な衝突をしなくて済む。

共通点が多いということは、それだけ意見の相違に事を発する衝突や不和が減ることになる。わたしたちが無意識のうちに衝突やリスクを減らす選択をしているのは、生存本能に従っているからだ。

逆に言うと、異質なものに警戒心、恐怖心を抱かない生物や種は、生き残ることができない。生き残るために、この本能は必要不可欠なものなので否定することはできない。

したがって、差別がない世界というのは、地球上の全員が皆同じ様相で、同じ価値観を共有していないと成り立たない。

 

自分のほうが優れているという優越コンプレックスと劣等コンプレックス

経済力、知性、学歴、職業、外見、ステータス、人種、肌の色から、果てにはどこに住んでいるか、バッグのブランドは何かまで、とかく人は自分と他人を比較したがる。自分が相手より優れていると思えば安心し、自分が相手より劣っていると思えば劣等感を抱く。「自分は優れている」という判断は、自分が属する社会的グループも優れていると判断することになり、他のグループを差別することにつながる。劣等感を抱く場合は、劣等感を隠すために相手を差別することにつながる。たとえば議論で太刀打ちできなくなったとき、相手の人格攻撃をするなどがこれにあたるだろう。

 

「多様性を否定するものは排除する」という差別が新たな差別につながる

最近は多様性という言葉が独り歩きしているように思うので、改めて「多様性」についておさらいをしたい。

単純に混じれば良いかというとそうではなく、各々の民族が確固たるアイデンティティを維持しながら相互に尊重する事

出典:多様性 - Wikipedia

簡単な例で紹介しよう。私には大嫌いな隣人がいる。他人の迷惑を顧みない無教養な人たちである。彼らとは挨拶もしないし、話もしない。理解しようともしない。価値観が違うので、理解し合うのは不可能である。だが、そういう人の存在を認め、共存する。価値観が違うからといって排除すれば、多様性に反することになる。

一方、昨今の「多様性を認めよ」といういっけん素晴らしいリベラルの流れは、リベラルなようでいて、多様性を否定する者は排除するという新たな差別を生み出している。

多様性を推し進める人たちは、自分たちと意見が違う者は徹底的に潰す、排除するという姿勢をとっている。それは暴力に発展することも多々ある。 

カリフォルニアは特にリベラルな州なので、ネットでも流れていたように先の大統領選ではトランプ派だった学生が学校で袋叩きにあったりというような事件も起こった。ヒラリー派が強いカリフォルニアで、トランプ派という違う価値観・意見を持った者は認められず、物理的に暴力を使って排除されることになった。

「移民反対」という意見の人がいれば、それは多様性を認めない人種差別主義者のレッテルを貼られ、罵倒される。移民が多くなれば、国の慣習を理解しない人が増え、秩序が乱されると言う人もいれば、移民の増加は犯罪の増加につながると理由から反対する人もいる。しかし今のリベラルの流れは耳を貸す余裕もなく、「移民に反対するものは多様性を認めないレイシスト」とレッテルを貼り、「それらは排除されるべき」という新たな差別につながっている。

「ジェンダーフリーのトイレなんて嫌だ」という意見の人がいれば、それは多様性を認めない差別主義者のレッテルを貼られ、社会的に抹殺される。「異性と同じトイレを使うのは恥ずかしい」という理由など認められない。どんな理由だろうが、反対する者はレイシストとレッテルを貼られる。

クジラやイルカを食す文化があるという多様性を認められず、暴力を使って排除しようとする人たちもいる。

これほど排他的なものが「多様性を認めた社会」と言えるのだろうか。

対極にいるものの、その論理構造とそれに基づく行動は、自分たちと違う考えを持つ者を排除するという点で差別主義者と同類である。

世界の動きを俯瞰してみると、better world への道のりはまだまだ遠いと痛感する。