ミセスGのブログ

海外ドラマ&映画の感想、世の中のお話

傍観者効果の実例:迷子に遭遇しても誰も声をかけない。

f:id:oclife:20200821211458j:plain

「あっつ」「あつー」

この時期、日本国民が最も呟いている言葉、それは「あっつ」「あつー」。

「暑い」というとさらに暑くなる気がするので、最近は「ムチョ・カリエンテ」とスペイン語で暑さを表現しています。そうしたら娘に「それどういう意味ですか」と聞かれたので「ベリー・ホット」と言ったら「ああ、そうですか」と言っていました。スペイン語も覚えてください。皆さんも良かったら是非。アメリカの製品にはスペイン語が併記されていて、トースターに「ムチョ・カリエンテ」と書いてあったので自然に覚えました。

家族のリハビリ送迎と子どもの学校送迎とでPCに向かい合う時間が取れない日が続いております。

更新が滞っているので、Gはもう死ぬかもしれんと思っている方もいらっしゃることでしょう。

まだ生きてるよ。

少し前に「OFUSE」という金くれプログラムから、結構な大金のお布施と共に嬉しいメッセージを頂きました。

いつもブログ楽しみに読ませていただいてます。Gさんのブログからはたくさんの影響を受けてます。 なにもしてあげられることはありませんが、いつもお世話になってるのでなにかの足しになればと思います。

「たくさんの影響」のひとつが局部のムダ毛処理だったらどうしよう。

ちょうど飼っている犬が落下事故に遭って下半身が動かなくなった時だったので、そのことも思慮してくれたのかもしれません。

ログインなしのお布施だったため返信ができませんでした。そのため、勝手ながらここでお礼を言わせてください。ありがとうございました。

お金も欲しいけど、応援メッセージはやっぱり嬉しい。ブログ続けた甲斐もあったのかなと思えるし、自分が多少なりとも(なるべく前向きな)影響を与えることができたら、それはマズローによるところの「自己実現」へ近づけるのではないか、そんな気がする。

と、格好いいことを言ってみたかった。

ここまで前書き。

今日は、日本に帰国してから何度か経験した「傍観者効果」について書いてみようと思った。

 

迷子に遭遇

日本では迷子に遭遇する機会が多い。

日本に帰国してからこの2年の間に4~5人は遭遇していると思う。

アメリカは犯罪率が高いので保護者は子どもから目を離すことが少ないし、child endangerment と言って子どもを危険に晒した罪は大きいので、必然的に迷子が少ない。

私は常々、日本では保護者が子どもから目が離すことが多いことをきつく批判しているが、海外に比べて日本は安全で平和なのでどうしても保護者の危機意識も低くなってしまう。

(危機意識が低いのは一概に保護者だけの責任とは言えず、平和ボケした日常、犯罪の凄惨さをオブラートに包んでしまうメディア、法整備の不足等、複合的な原因がある。だからこそ筆者は若い世代には日本を一旦出て海外の生活を経験することによって意識を変えることを強くお勧めしている。)

そのため、「少し目を離した隙に」子どもの姿を見失ってしまうことが多く、迷子が多くなるというわけだ。

 

誰も声をかけようとしない

そんな迷子シーンを目にして、私はあることに気が付いた。

泣きながら「ママー!」と叫ぶ子どもが目の前にいても、誰も声をかけようとしないことだ。子どもの存在は目で確認しているし、迷子であることは気が付いているのに、そばを通る大人は一瞬子どもに目をやるもすぐに視線を元に戻してそのまま通り過ぎて行ってしまう。

あるいは、少し離れたところから子どもの方を見ながら同行者と何やら話しているだけだ。日本人は優しい人が多いので、きっと「迷子かな?」「大丈夫かな?」と話しているのだろう。

数日前も、母とスーパーに行った時に4歳くらいの男の子が泣きながら「ママー!」と叫んでいた。大人たちは、子どもの周りを通り過ぎるが誰も声をかけない。子どもにちらっと視線を向けるので、子どもの存在は認知しているし、迷子であることは分かるはずだ。

「これが傍観者効果か」

気が付いたら、迷子のシーンではほぼ傍観者効果が見られることに気が付いた。

お喋りな私の母でさえ、声をかけようとしない。「〇〇はどこかな」と言いながら、子どもの隣を通り過ぎて行った。おい。

アメリカのスーパーで、ほんの一瞬、我が子が隣の通路に行ってしまったとき、数秒で他の家族が我が子を連れてきてくれたことを思い出した私は、勇気を出して男の子に声をかけることにした。

「ママ探しているの?」

男の子は怖がりながらも「うん」と頷いた。

「ママ一緒に探そうか」と言って(実際はウロウロ動かずにその場に一緒に佇むことにした)、私はママが現れるまでその場で男の子と一緒にいることにした。

暫く経っても現れなかったら、スーパーの従業員の方に託すことにした。

数十秒後、ママが慌てて現れ「本当にすみません!ありがとうございます!」と言って、無事に息子さんを連れて行った。

めでたしめでたし。

スーパーでの迷子はたいてい事なきを得るものの、迷子の存在を認知したにも関わらず、声をかける人を見たことがないのは憂慮すべき点だ。

数か月前にも、やはりスーパーで大声で「ママー!」と叫びながら走り回る少年を誰もが傍観視していたし、屋外の草原で泣きわめく外国人の少年を見ても誰もが遠巻きに傍観しているだけだった。前者は走り回っている少年が自力で祖父を発見、後者は保護者が笑いながら迎えにやってきた。

 

傍観者効果

傍観者効果(ぼうかんしゃこうか,英:bystander effect)とは、社会心理学の用語であり、集団心理の一つ。ある事件に対して、自分以外に傍観者がいる時に率先して行動を起こさない心理である。傍観者が多いほど、その効果は高い。 これは、以下の3つの考えによって起こる。

傍観者効果-Wikipedia

傍観者効果はニューヨークのキティ・ジェノヴィーズ殺人事件をきっかけに提唱された社会心理効果だ。

傍観者効果が起きる原因は、以下の3つがあげられる。

  • 多元的無知 - 他者が積極的に行動しないことによって、事態は緊急性を要しないと考える
  • 責任分散 - 他者と同調することで責任や非難が分散されると考える
  • 評価懸念 - 行動を起こした時、その結果に対して周囲からのネガティブな評価を恐れる

これを迷子シーンに反映させてみると、

多元的無知 ⇒ 周囲の人々が迷子の存在を認知しながらも誰を声をかけないことから「大丈夫なのだろう」と思い込む。

責任分散 ⇒ 周囲の人々が気付いているから、いずれ誰かが声をかけるだろう。何故、自分が責任を負う必要があるのか?

評価懸念 ⇒ 声をかけて子どもが予想しない行動をとったらどうしよう?声をかけて逆に変質者や誘拐犯だと思われたらどうしよう?子供にとっては見知らぬ人である自分が声をかけて周りの人がどう思うだろう?保護者が現れたときに「あなた、なんですか!?うちの子に何しようとしてるんですか!」と不当な叱責を受けたらどうしよう?そもそも声をかけるのが恥ずかしい。

といった感じか。

傍観者効果の事例としてはアメリカのキティ・ジェノヴィーズ殺人事件があまりにも有名ではあるが、私の経験上、迷子シーンではアメリカは傍観者効果が発動しにくいように感じる。犯罪が多いし、子どもを狙った犯罪も多い反面、国の将来を担う宝である子どもを何としても守るべきという意識を持った人も多いので、とんとんといったところか。

ガブリエル・フェルナンデスのような事件もあるし、国による違いは無視できるものかもしれないが、アメリカ人は一般的にフレンドリーな人が多く、他人との対話に積極的なので、迷子シーンにおいては誰かがすぐに声をかけると断言できる。

私は、迷子が泣きながら「ママ~!!」と叫んでいるのに大人が誰も声をかけずに傍観しているというあの光景がとてつもなく異様に感じて不快で仕方ないなので、近くに迷子がいたら声をかけるようにしている。

実は声をかけること自体、勇気が要ることなのだが、社会の悪しき慣習は変えていきたいと考えているので、お節介や変なおばさんと思われようが、ここは敢えて勇気を振り絞っているわけだ。というより、そんな自分は嫌じゃーという拒否感があるのだと思う。

なお、助けが必要な人物が傍観者と同じ社会的集団である場合、助けを得られる可能性が高いという点も留意したい。

我が子の通う学校の教師(黒人男性)が自転車で転倒し、顔から血が出ていたのだが、そばにいた二人の日本人女性は声をかけることなく、そのまま通り過ぎて行ったことに彼は傷つき、怒ったそうだ。彼が日本人女性だったら、間違いなく二人の日本人女性は「大丈夫ですか!?」と声をかけただろう。

 

傍観者効果を打破するには

スーザン・クラウス・ウイットボーン博士によると、傍観者効果を打破するにはいくつかのヒントがある。

  • 自身がピンチの時は、集団から一人を選ぶ。

集団の中の一人と目を合わせることで、「当事者意識」を持たせる。

  • 自身が傍観者の時は、行動を起こす。

傍観者であっても、誰かが行動を起こさなければならない。自分がその行動を起こす人間になること。

  • 利他主義の傾向を利用する。

人間には利他主義(自己の利益より他人の利益を優先すること)が組み込まれている。多くの人が本質的に人を助けたい願望を持っているので、それを利用する。

もっと言うと、人間は他人を助けることによって幸福感を感じることができる。人を助ける機会が多いほど、幸福感は増す。現代の日本で核家族が進み、隣人や親戚との関係が希薄になったことと、うつ病などの気分障害が増えているのは無関係ではないはずだ。イスラム教では人を助ければ助けるほど死後により良い場所に行けるので、助けられた人ではなく助けた人が感謝を述べることがあると聞いた。彼らは、人を助けると自分が幸せな気持ちになることを既に知っていて実践しているのかもしれない。

  • 助けたことの結果については悩まないようにする。

助けることで自分の身を危険に晒すリスクはあるが、助けなかった場合、助けられたのに助けられなかったという後悔の念を抱きながら残りの人生を過ごすことになる。

迷子に声をかけたことで誘拐犯や変質者と不当な勘違いをされたり、子どもの親から不当な扱いを受けたりする可能性もあるが、親とはぐれて独りぼっちになった子どもの気持ちを落ち着かせ、子どもが危険な目に遭わずに済むことができたら、それでいいと思えるのでは。

  • 子どもに対して利他主義と人を助けるモデルになる。

勇気を出してその場の情況の責任を背負って援助が必要な人を助けることを見せることで、子どもたちは大切な教訓を学ぶ。

迷子という子ども的大ピンチの情況で、大人が誰も手を差し伸べなかったら、子どもは大人を信用できず、他人には頼れないという刷り込みが働くかもしれない。

私たちは傍観者にもなれるし、介入することもできる。一人ひとりに勇敢に行動する力が備わっている。

 

いじめを減らすためにも

傍観者効果が働くシーンのひとつに「いじめ」がある。

小学3年生~5年生を対象にした研究では、いじめられている生徒を守ろうとする生徒がいる場合、教室でいじめられる傾向が低いことが分かっている。

親や教師たちが同級生を助けるように促して支持的な環境を作り出すことがいじめを減らすヒントになるかもしれない。

傍観者効果自体は人間心理なのでなくすことはできないが、傍観者効果を意識することで、少しの勇気で自身の行動を変えることはできる。

一人一人が少し勇気を出して介入することで傍観者効果を打破することは可能だということだ。

もともと日本人はシャイな国民性であり、見知らぬ人と会話し始めたりすることは稀である。公衆の場で他人に声をかけることが苦手。これは、傍観者効果が作動しやすい状況を生み出すかもしれない。

筆者は、かねてから駅や商店街、モールなどで垂れ流されるアナウンスや、トイレ、コンビニ、駅、街中、店頭での貼り紙や注意書きががうるさくてたまらないと感じている一人なのだが、実はこれが極度な管理社会を作り出し、公共の場で声を発することや対話を阻害する要因のひとつだと考えている。

話が長くなるので、これについてはまた今度取り上げようと思う。