2020年5月。ある女性が22年という短い人生に終止符を打った。
女性は某恋愛リアリティドラマに出演していたのだが、ドラマ内の言動についてSNSで誹謗中傷されていたようだ。
そして、ネットの執拗な言葉の暴力に耐えかね、自ら命を断った。
インターネットがもたらしたもの
インターネットは私たちの日常を一変させた。世界のどこからでも買い物ができるようになり、好きな時に好きなところで好きなコンテンツを鑑賞できるようになった(スポンサーCMに煩われることなく!)。
オフィスや取引先に出向かなくとも、オンライン上で面接もミーティングも商談も済ませられるようになった。銀行に出向いてATMに並ばなくとも入金を確認したり振込できるようになった。
世界の色々な場所を覗き見することができ、世界中の人々と繋がることができた。高嶺の花だったアスリートや芸能人、スターとさえもSNSで気軽に繋がることができるようになった。
恩恵と可能性は無限大。薔薇色に見えたインターネットだが、それは同時に大きな社会問題も内包していた。
「みんなと繋がる」ことで対立が激増する
元来、人間は同質の者同士で群れる生き物である。子供たちは学校やクラブを通じて相性の良い者同士で自然に数グループにまとまっていく。大人になってからも、私たちは気の合う者同士、考え方や価値観、バックグラウンドが似通った者同士で固まっていく。
多様な人種が共存する移民国家アメリカでさえも、その実、白人は白人同士、黒人は黒人同士、ヒスパニックはヒスパニック同士、アジア人はアジア人同士で固まって生きている。
多様性が喧伝される現代では、人々は積極的に異人種と関わり合おうとするが、それは往々にして一時的な交流と関与にとどまる。間欠的な多様性に興じたあとは、自然に同人種の空間へと戻っていくものだ。
この淵源は、数百万年の人類の歴史の中で、種の繁栄と維持のために人々が体得してきた生存本能にある。人種が異なれば、考え方、価値観、行動規範、行動様式、食生活が異なるのは当然であるが、それは同時に、意見の相違や対立が多くなるということでもある。
対立が多ければ戦いも多くなり、グループの維持繁栄の可能性が低くなる。したがって、安寧のために同質の者同士集まるのは自然であり、自身が所属する集団やコミュニティの生存と繁栄のためには理にかなったことなのだ。
ミクロレベルでいえば、遺伝性質が異なると患う病気なども異なってくる。最古の人類の時代には、外来者は病気を背負ってくる災厄とみなされ畏れられ排斥された。
インターネットは新たな戦場
インターネットの代表格であるSNSは、Facebookやインスタグラム、twitter、Snapchatをみても分かるように、それ自体が自己表現、自己発信することを前提としており、傾聴や深化、内省を促すものではない。
そこではSNS、ブログ、動画サイトで誰もが簡単に自己発信できる。そのため、誰もが誹謗中傷のターゲットになる危険性を秘めている。
本来であれば同質の人々に囲まれて最低限の対立や争いに対処すれば済んでいたところが、インターネットの登場で異なる意見、価値観、考え方、バックグラウンドの人々と繋がるようになった。
SNSは自己表現に集中した場なので、それぞれが思いの丈をぶつける。すると、その投稿について、異質なバックグラウンドの人々が自身の思いをぶつける。まもなく人々は激しく意見を交わすようになっていった。また、可視化された人の言動や容姿を誹謗中傷するようになっていった。
悪罵の対象は、全てに及ぶ。容姿や肌の色といった外見だったり、作品や文章力といった成果物だったり、瑣末な誤記や罪のない言い間違いであったり、英語の発音であったり。
名のある人が被災地に寄付をすれば「売名行為」と批判されるし、寄付をしなくても「ケチ」と批判される。
つまるところ、何をしても一定の人々に叩かれるのだ。
人類史において、現代ほど様々なバックグラウンドを持つ人々が繋がったことは未だかつてない。「みんなと繋がる」ということは、考え方や価値観の違う人々とも繋がるということだ。繋がることのなかった相手と繋がるようになれば意見の対立は避けられない。
かくしてインターネットでは、考え方や価値観、イデオロギーの相違を巡って、連日激しい攻防が延々と繰り返されるようになった。発言だけでなく、言動や容姿でさえも、具に監視され、批判され、誹謗中傷されるようになった。
インターネットは新たなバトルフィールドなのである。
インターネットは対立を増幅させる
もちろん、対立の出来はリアル社会でも見られることだ。昨今はネット上のイジメが取り上げられるようになったものの、リアル社会にもやはりイジメはある。だが、問題はインターネット上では言葉の暴力が増幅されることにある。
インターネットは基本的に間接的で一方向であり、対話というより独り言に近い。直接的で双方向の対面コミュニケーションとは根本的に異なる。
相手が目の前にいるわけではないので、相手の反応や顔の表情、声のトーンから相手の感情状態や衝撃を伺い知ることができない。非言語的なコミュニケーションがそっくり不在なので、自分が発した言葉が相手にどう作用しているか、皆目検討がつかない。
「相手は仕事でトラブルがあったりして落ち込んでいる状態かもしれないし、身内に不幸があって辛い時かもしれない」といった僅かな想像力と常識、相手への思慮を備えていれば発言に細心の注意を払うことができるだろうが、この世界はそうした人ばかりではない。
不寛容で偏狭で想像力に欠いた人々が、会ったこともなければ目の前にいない相手を頭の中で非人格化させるのは、独り言のように容易い。それゆえネット上の言葉の暴力は、より過激で辛辣で容赦がない。
さらに現代人は、スマホを通してひっきりなしにネット世界に接続しており、これがネット上の攻撃のエスカレートに一役買っている。
絶えず電子外部刺激を受け続けているために、孤独になる暇がなく、自分自身の思考に取り組んで内省する機会を奪われている。
スマートニュースを読みながらメールをチェックしていると、LINEが来たので返信する。メールチェックに戻ると再びLINEに返信がある。Twitterとfacebookに投稿し、インスタを永遠にスクロールしているうちに、気が付いたら30分、1時間と時間が経っている。登録動画チャンネルもチェックしなければならない。こうして絶え間なく接続している間に、脳はいわゆるメタ認知能力を育む機会を失ってしまう。
SNSは基本的に内省や深化ではなく自己表現に集中する場なので、読書や会話など静かな環境で養われるような想像力や内省の妨げをする。
絶え間なく電子外部刺激を受けている状況で、私たちは一体どうやって孤独な時間を持って内省したり、他者に耳を傾けて共感性やリスペクトを育むことができようか。
インターネットのこうした特徴から、オンライン上の攻撃は増幅され、人を死に追いやるほど過激な装置と化してしまう。インターネットに繋がっている限り、誰もが殺人的な誹謗中傷のターゲットになりうるという社会に私たちは生きている。