実話を基にした泣けるヒューマンドラマ。
インドで大迷子になった5歳の少年が25年後に家族を見つけようとする感動の話。ライオンはいつ出てくるのかと思いながら最後まで観ることになる。
ふかづめさんが俺は新年の抱負なんか語らね!とクダ撒いてるけれど、今年は私も抱負なし。その理由はふかづめさんとは異なるものだけれど、年齢的に抱負を語る年ではなくなってきて、年末年始のイベントに使う気力体力が低下していることや、何より普段通りの平々凡々な日々を送りたいというのが理由です。
家族とゆっくりレスリングもどきしながら過ごしたいというのが本音でして。まあ今は旦那不在なのでそれも叶わないのだけれど。
まだアメリカにいた頃は、アメリカに永住すると日本の温泉旅行に行けないんだなぁ…とボヤいていた。でも実際、旅するとなると旅の予約やら準備やら忙しいし、行って帰って来ても結局疲れてたりするんだよね。なんだかんだで家でゆっくりゴロゴロしているのが一番なのかも、じゃあ日本でもアメリカでも変わらんなと思ったりして。
それより飛行機乗りたい。
【ライオン~25年目のただいま~】作品情報
原題:Lion
公開年:2016年
監督:ガース・ディヴィス
出演:サニー・パワール、デーヴ・パテール、ルーニー・マーラ、ニコール・キッドマン、デヴィッド・ウェンハム
上映時間:129分
言語:英語、ヒンドゥー語、ベンガリ語
主人公サルーの少年時代をを演じたサニー・パワールが主演、大人になったサルーを演じているのが「スラムドッグ・ミリオネア」のデーヴ・パテール、GFにルーニー・マーラ、サルーを養子にしたオーストラリア夫婦の嫁にキッドマンと、ふかづめさんのために作られたようなレディースキャスティングの映画です。
【ライオン~25年目のただいま~】あらすじ
インドの貧困家庭に育つ5歳の少年サルー。母と兄のグドゥ、妹の4人暮らし。サルーは家計を助けるために兄のグドゥと一緒に日銭を稼いでいる。
あるとき、兄にせがんでついていった仕事先で迷子になってしまい、家族と会えなくなる。
サルーは保護施設に引き取られ、オーストラリアの富裕な夫婦に引き取られる。
25年後、サルーは故郷と家族を探そうとする。
【ライオン~25年目のただいま~】感想
2016年の作品で、第89回アカデミー賞最有力と言われていた作品ですが、作品賞・助演男優賞(パテール)、助演女優賞(キッドマン)、脚色賞、撮影賞、作曲賞と6部門のノミネートに留まりました。
ただしオーストラリア映画協会賞では多くを受賞しています。
私はてっきりインドの少年が生き別れた家族を探しにいく途中でライオンと出会ってマブダチになり、ライオンと一緒に家族を探す旅なのかと勘違いしていたのだが(ものすごい勘違い)、サーチはグーグルアース任せで、主人公が実際にあっち行ったりこっち行ったりすることは殆どなく、サルーと周囲の人たちの心理に焦点を当てたヒューマンドラマでした。
通常は映画が始まるクレジットの前にタイトルが出ると思うんだけど、この映画はタイトルが表示されない。なんでだろ~なんでだろ~ライオンいつ出るだろう~と思ってると、最後にライオンのタイトルが出て、ライオンの話を見ていたことに気づく。
前半40分くらいは迷子になったサルーの少年時代が描かれる。この映画の最大の見どころはなんといってもこの最初の40分と断言してもよい。
迷子になったつってもイオンモールでハグれたとかそんなちっさいスケールではなく、迷子の距離およそ1600km!!2000kmだったか?
まぁここまで迷子距離が大きくなると1600も2000もそう変わらない。ググったら、東京からん距離で西は上海、北はカムチャッカ半島とか書いてある。
迷子のスケール桁違い。もはは迷子じゃなくて飛行機で無理やりお一人様旅行レベルである。
サルーたちが生きる環境は絶対貧困。おそらくカースト制度の中でも最下層かあるいはサブヒューマンともよばれる不可触民、母は文盲なので子どもたちも文盲の道を辿っていただろう。インドの経済発展がいまだに遅々として進まない原因の一つにこのカースト制度がある。
アジアの中でもインドの絶対貧困のレベルは想像を遥かに超える。子どもたちは当たり前のように学校に行かず、あちこちで日銭を稼いでその日の食の足しにする。
インドでは毎年8万人の児童が行方不明になっているという。確認されているだけの数字なので、報告されていないものも含めばその数はもっと高いだろう。
子どもたちは腐った外道のために非人道的・非倫理的な目的のために日々さらわれていく。児童労働や児童買春といった悪の概念はここには存在していない、見放された地だ。
ここでは、迷子になったサルーの目を通してインドの貧困が改めて浮き彫りにされている。つまり、この映画は生き別れた家族を探し当てるヒューマンドラマであるとともに、インド諸国の児童売買を糾弾する社会派映画でもある。
キャストで特筆すべきは、なんといっても5歳のサルーを演じたサニー・パワール君であろう。とにかく可愛い。これほど人好きする顔の子役をよう見つけたなと感心したものだ。
サルーの故郷ではヒンドゥー語なのにサルーがうっかり乗り込んで電車で連れて行かれた先はベンガル語が主要言語のコルカタ。サルー君がヒンドゥーで話しても理解できないので、家族と離れてからサルー君はほぼ無言なのだが、とにかく可愛い。
ストリートの知恵を持つサルーは、ホームレスの子どもたちをさらいにくる悪魔の手をなんとか逃れ、危機も事前に察知して逃げるサバイバル能力を持つ。まさにライオンそのものだ。
運良くオーストラリアの富裕夫婦に引き取られることになったのも、状況を考えると奇跡といっていいだろう。
オーストラリアのタスマニア夫婦ことウェンハム&キッドマン邸に招かれたサルーは、美しい場所で暖かい義親の愛情をたっぷり受け、何不自由ない生活を送るようになる。
まもなくタスマニア夫婦は、もう1人インド人の少年マントッシュを養子に迎え入れる。マントッシュは自閉症を抱えていて、すんなり夫婦に馴染んだサルーとは異なり、手がかかる子だった。
その後、映画は大学生になったサルーにまで飛ぶ。大学でホテル経営を学びながら、インド出身の友人たちと話すうちに、母国語も話さず、インドの慣習について何もしらない自分に気づくサルーは、ここからアイデンティティ探しの闇に陥る。
生家も知らず、母や兄がどうなったのかも知らないことに25年経過して初めて気づいた遅咲きサルーではあるが、デーブ・パテールがまあイケメンだしスクリーン映えするので許しちゃう。
サルーは大学でルーニー・マーラと出会い恋に落ちるのだが、正直ルーニー・マーラの役どころはなくても全然映画に影響しない役どころだったのが残念。ルーニー・マーラの笑顔まで見れるので、ファンはルーニー・マーラを見ているだけで嬉しくなるだろう。
あまり大きい声では言えないが、実は私はルーニー・マーラは好きでも嫌いでもなかったのねー。しかし、どういうわけか本作の居ても居なくてもいいルーニー・マーラがひたすら可愛いことに気づいて弓矢を射られた感じ。わかりますか?要はルーニー・マーラのせいではない。
キッドマンとウェンハムはどちらも控えめな存在感が好感を持てる。これまたキッドマンを女優十選に入れている師匠には大きな声では言えない話なんだが、私はキッドマンもあまり好きではなくて。どうもあの「美」を前面にだしてくる感じが好きじゃなくて。無駄に背が高いし、コリンファレル様、狙ってる感じもするしな?
キッドマンが出ていることを知らずに観たんだけど、タスマニア夫婦の母ちゃんの方が赤毛のチリチリ天パーで、この何度も見かけたことある長いまっすぐな足…まさかニコール?と思ったら本当にニコールでね。
このチリチリヘアー、ニコールの昔を思い出すなぁ。
サルーの生き別れた実の家族については、物語の最後になるまで消息が分からない。そのため、サルーが失踪して家族がどんなツライ日々を過ごしてきたかまでは語られない。サルーと実の家族の間で失われた25年を私たちは知る由もないからだ。
サルーが実の家族の存在について考え始めた時から物語はほぼ停滞するので、前半の少年時代の無機質なのにスリリングなインドのシーンを観てくると、ここで中だるみを感じる人も多いかもしれない。
「ウダウダ考えてるんだったらとっとと家族を探しに行ったらどうだ」と思うかもしれない。しかしサルーは育ての親を心から愛しており、実の家族を探すことは育ての親への背信と捉えていた。そのため、育ての親に言うこともできず、かといって探しに行くこともできず、悶々としていたわけだ。
人間が苦悩したり悶々する映画は好きなので、サルーが悶々としているのはいっこうに構わないのだが、この映画では育ての親つまりタスマニアン夫婦と自閉症の義兄マントッシュの背景がそっくり抜けている。
タスマニアン夫婦について分かっていることは、サルーがキッドマンに直接聞いた「なぜ養子を?」ということだけ。キッドマンはそこで自分たちが子どもを作れなかったわけではないことを明かし、世界では人口爆発してるし、恵まれない子供たちが大勢いるから、産まずに養子をとることにしたと告白する。
サルーが苦悶している間に、何故ここをもっと掘り下げてくれないのか。そもそも養子をもらわない人たちは「養子をとるのは何故なんだろう」とか物凄い不思議に思うわけで、その答えが「恵まれない子供たちがいっぱいいるから」だけでは到底納得できない。その答えに至るまでのプロセスがタスマニアン夫婦にはあるはずだが、これがそっくり抜けている。
タスマニアン夫婦の母と父はどんな人物なのか?富裕で愛情深い人たちである以外に、この大事な二人の顔が見えてこない。マントッシュ絡みでタスマニアン夫婦が苦労したことも殆ど描かれていない。
これはサルーの物語で、サルーが生き別れた家族と再会する話なので、育ての親と義兄にフォーカスする必要はないのだろうが、タスマニアン夫婦のバックグラウンドや養子を育てて苦労したことも描写できていれば、サルーの苦悩がより想像しやすかったように思う。
児童売買に正面から切り込む映画やドキュメンタリー映画が多い中で、一人の少年の運命にフォーカスしながら、ヒューマンドラマの切り口から撮っているという点がユニークだし、観終わって心が清々しくなる映画でした。