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『存在のない子どもたち』7月20日公開映画の感想:窮状、ネグレクト、児童婚、人身売買を子ども視点で描いた衝撃作

存在のない子どもたち映画のあらすじ感想

存在のない子どもたち(7月20日公開)

7月20日公開の新作映画「存在のない子どもたち」を視聴した感想です。

中東はレバノンを舞台に貧困により社会から見捨てられた子どもたちの姿を子どもの視点で描いた社会派映画です。

 

『存在のない子どもたち』 作品紹介 

原題:Capernaum(カペナウム:*アラビア語でナフーム村。フランス語では新約聖書のエピソードから転じて、混沌・修羅場の意味合いで使われる。

製作年:2018年

監督:ナディーン・ラバキー

出演:ゼイン・アル・ラフィーア、ヨルダノス・シフェラウ、ボルワティフ・トレジャー・バンコール

上映時間:126分

監督はレバノン人の女性ナディーン・ラバキーで、ちょこちょこ小役をこなす女優でもある。本作でもネイディーンという少年の弁護士役でちょこっと出演している。

存在のない子どもたち映画のあらすじ感想

ナディーン・ラバキー監督

 

『存在のない子どもたち』あらすじ

わずか12歳で、裁判を起こしたゼイン。訴えた相手は、自分の両親だ。裁判長から、「何の罪で?」と聞かれたゼインは、まっすぐ前を見つめて「僕を産んだ罪」と答えた。

中東の貧民窟に生まれたゼインは、両親が出生届を出さなかったために、自分の誕生日も知らないし、法的には社会に存在すらしていない。学校へ通うこともなく、兄妹たちと路上で物を売るなど、朝から晩まで両親に劣悪な労働を強いられていた。

唯一の支えだった大切な妹が11歳で強制結婚させられ、怒りと悲しみから家を飛び出したゼインを待っていたのは、さらに過酷な“現実”だった。果たしてゼインの未来は―。

存在のない子どもたちオフィシャルサイト

 

『存在のない子どもたち』感想

冒頭、裁判所で12歳の少年ゼインが人を刺した罪で裁かれている。ゼインは自分の良心を「僕をこの世に産んだ罪で」訴えたいと申し出る。

この裁判の行方やプロセスなどはドラマの本筋とは無関係なので、映画の最初と最後にしか出てこない。映画が描きたいのは、裁判の内容ではなく、ゼインがなぜ自分を産んだ罪で両親を訴えてやるー!と主張するに至ったかである。

シリア難民のなかで輝く宝石、ゼイン・アル・ラフィーア

こちらがそのゼイン君(役柄と同じ名前)。ご覧の通り、超美男子。叶姉妹風の大好物の「グッドルッキング・ガイ」は映画俳優となるとえてして没個性になりがちだが、このゼイン君たるや宝石のような存在感とカリスマ性を見せる。

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シリアに埋もれていた宝石、ゼイン君

ゼイン君はシリアに生まれたが、シリア内戦でレバノンのベイルートに逃れる。住宅街で遊んでいたところをキャスティング・ディレクターに発見され、本作に抜擢された。現在はノルウェーへの第三国定住が認められ、家族とノルウェーに住んでいるという。

本作で子どもたちが置かれる状況は、ゼイン君本人の境遇と同じようなものなので、ゼイン君は演技をする必要がない。悲しみも怒りも強さも、彼自身のものである。リアリズムどころか現実である。

同じように無名の俳優やスラム出身のキャストを起用した「スラムドッグ・ミリオネア」「シティ・オブ・ゴッド」「ビースト・オブ・ノー・ネイション」「ジョニー・マッド・ドッグ」が成功したのも、そこに過酷な現実の辛酸を舐めた者にしか醸し出せない迫真性と哀感を見るためであろう。

俗にいう天才子役など糞食らえッー!

というキッズです。

そもそも我々が「天才子役」と褒め称えた時点でその子役は天才ではないのよね。天才は凡庸な我々の理解を超える独創性と個性を持っているのだから、我々が理解し把握できてしまう枠にいる時点で天才ではなく秀才なのだと思います。

そして超カワエエです。

ラバキー監督は主演のゼインについて、こう語っている。

学校にも行っていないし、自分の名前も書けなかったけれど、自分がどんな人生を送ってきたか、自分が何者か正確に話すことができました。

路上で学んだ強さと賢さに惹かれました。

シネマトゥデイ
映画を地でいくキャストたち

ゼインだけでなく、出演しているキャストはほぼ演技未経験の素人だ。ラバキー監督は、役柄と似た境遇のキャストを起用することで、作り物の映画には真似できないリアリズムの再現に成功している。といえば聞こえはいいが、キャストほぼ全員が映画の役柄の境遇と似ているというクリント・イーストウッドも真っ青のキャスティングにはさすがに驚く。

ゼイン君の名前をそのまま使っているのも「ありのまま」を追求したラバキー監督の配慮とこだわりの表れであろう。

ゼイン君は、まっすぐに判事と両親を見据えると「僕を産んだ罪」で両親を公然と非難する。両親は最初は「生活が大変なんや」「貧しくて食べるものにも事欠いているから仕方ないんや」とか言い訳するのだが、ゼイン君の言っていることが真実なので最後はバツ悪そうに下を向く。

いわゆる日本やアメリカという先進国で育ったティーンが反抗期に「なぜ私なんか産んだのけ!」と両親に言ってのけるのとは違う。まぁ日本もアメリカも超格差社会まっしぐら、悪化の一途を辿っているので「本作のゼイン君は明日の私」と身を引き締めるべきではある。(監督が言うように)

ゼイン君は、最も近しい妹のサハルが初潮を迎えたのをきっかけに児童婚をさせられたことを知って激怒。サハルを連れて逃げようとするが、両親に阻まれ、サハルが連れ去られた後、一人家を去る。

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サハル。レバノンで不法滞在の父に言われてチューイングガムを道で売っていたところ、キャスティング・ディレクターの目に留まった。

ゼインはこっそり貯めておいた小銭を手に街をウロウロするが、偶然、不法移民の女性ティジェストと出会い、生活を共にするようになる。

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リアルでも不法移民だったため、映画の撮影とシンクロして逮捕されてしまうというぶっ飛び展開。

ティジェストを演じたヨルダノス・シフェラウは、ラバキー監督が保証人となり釈放されたようだが、その後の彼女の運命はどうなったのだろうか。

ティジェストには1歳くらいの乳飲み子ヨナスがいて、普段は子どもをトイレに隠しながら働いていたのだが、ゼインを食べさせるのと引き換えにゼインが家で(注:掘っ立て小屋)子守をするという共存関係になる。

こちらがヨナス役のボルワティフ・トレジャー・バンコレくん。この子もカワエかった。両親が逮捕され、レバノンから国外追放となり、母とトレジャー君はケニア、父はナイジェリアに帰国したため、父とは離れ離れという境遇。

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ヨナス君も不遇の生まれ

両親が逮捕されたとき、ちょうど母役ティジェストが映画の中で逮捕された時だった。なんたる曰くだろうか。

ここでは省略するけど、ゼイン君の映画上の父母も映画のような境遇です。

子どもの視点でみる腐った世界

ゼインには戸籍もなければ出生証明もなく、両親さえ彼の誕生日や生まれた年を把握していない。むろん学校に行く金もない。ゼインは日々、家族の食い扶持を得るために何かを売ったり運んだりして駄賃を稼いでいるのである。

ゼインの姉妹サハルが初潮を迎えたことに気付いたのはゼインだった。サハルはそれが何かわからない。ゼインは「誰にも知られちゃいけないよ」といって自分のTシャツを渡し、サハルに股に挟むように言う。

ゼインは初潮を迎えた女子がどうなるかを知っているのだ。結局、両親にバレてしまい、サハラは近所の近所の店主のところへ強制的に嫁に出されるのだが、顔に濃い化粧を施し、綺麗なドレスを着せられたサハラに、何もできない無力さと憤怒とやりきれない思いを募らすゼイン。

家出したゼインがティジェストと出逢い、わずかに共存関係が続くが、ティジェストが不法滞在で逮捕されてしまうとゼインは1歳児のヨナスと二人きりになってしまう。

しばらくはヨナスに乳を飲ませたり食べさせていくことができたゼインだが、金も何もなく行き詰まる。

残された手段は、ヨナスを欲しがる男にヨナスを託すことだけである。よりによって子どもの人身売買だけが残された道という四面楚歌。ゼイン12歳。

ヨナスを男に預け、やむを得ず実家に戻ってきたところで、ゼインはサハラが亡くなったことを知る。サハラは児童婚をした相手に妊娠させられたのが原因で死亡してしまうのだが、その詳細は明らかにされない。児童婚も児童妊娠も子どもの視点で語られているため、憤るゼインに親はなんの説明もせず、私たちはただただサハラの気の毒な境遇に哀悼の意を抱くだけである。

昨今のドラマや映画によくあるように、暴力や悲劇そのものにフォーカスして視聴者に衝撃を与え、感情を最高潮まで揺さぶるのは簡単なことだが(悪例:闇の子どもたち)、世界に問題提起するために事実である過酷な現実をことさら強調する必要はないのである。本作では逆に子ども視点をズラさず、全容を与えないことで、この社会の不条理をことさら強く感じることに成功したといえる。

子ども時代が人生の基盤である以上、子どもの視点で撮ることが大切であることに異論はあるまい。

ゼインは怒りのあまり、男のところへいって刺してしまう(男は生きている)。 

ゼインの両親はというと子どもを養う経済力がないのに多産。収監されているゼインに面会に行った母は、臆面もなく「神様は何かを奪うと何かを与えるの。ママ妊娠したのよ」という始末。

怒ったゼインは「もう二度と会いにくるな」といい、裁判所では両親に「子ども作るんじゃねーよ!」と叱責する。ごもっとも。

ゼインが乗り越えて行くこれら一連の受難を、ローアングルで撮ることでキッズ視点からの腐った世界を大人も見ることができる。

キッズ視点のローアングルだけでなく、カメラは上から横から後ろから前から撮影されていて、カメラワークの技が冴えていた。

思えば「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」は先進国であるアメリカの貧困層それもDQNを描いた映画で、私はどうしてもあの映画が好きになれなかった。それは何故かと言うと、貧困であれどまだ選択肢が残されていた世界で、バッド・チョイスばかりする母とその気の毒な娘を見世物小屋のように映していたからである。

しかし本作は違う。不健全な社会システムに置かれた子どもたちがどういった苦難を強いられているのか、子どもたちはどうやって生きているのか、絶望的な世界での子どもたちのレジリエンスといったものを見せつけられ、社会の不条理・不公平さ、大人の愚かさに目の当たりにする。

超格差社会へ突き進む世界への警笛

私たちが知る既存の社会システムが崩壊したとき、最初にそして最も受難を被るのは子どもたちと女性である。ラバキー監督の「存在のない子どもたち」は、決して遠く離れた中東の貧困層の出来事ではなく、いつか私たちが生きる社会でも起こるであろう悲劇であることを教えてくれる。

プロダクションと撮影場所を考慮したら、これは間違いなくレバノン映画。でも、物語自体は、基本的な権利が与えられず、教育、愛までも受けることができない全ての人たちへ向けたもの。この登場人物たちが生きる暗い世界は、来るべき時代を表すもので、世界中にある大都市すべての行く末なのです。 

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劇中、一度も笑顔を見せなかったゼイン君が最後に見せてくれる笑顔に萌え。