あなたは一人が好きだろうか。
私は一人が好きだ。
幼いころから集団生活が苦手だった。
学校生活はだいたい楽しい思い出ばかりだが、自分の中にある「集団アレルギー」的な性格によって、周囲の人たちとの間に生まれるギャップや気まずい空気感や、影で「あの人はちょっとアレだから」評価されているかもしれない、という苦い感覚もセットで思い出される。
KYではないと思っている一方で、失言も多いし気が利かな過ぎるので、何らかの精神疾患はあると自己分析している。
中学時代は「ひとりで教室移動行っちゃう」人と呼ばれることが多く、意識的に「さぁ、お前たち。次は理科室へ移動ですよ。そろそろ行きますか。」と心がけた。
高校時代は休み時間に黙々と英単語を覚え続けるJKだったので「なんでいつも英単語覚えているの?遊ばないの?」と同級生に聞かれる。なんで英単語をいつも覚えているのか…そんなこと考えたこともなかったし「むしろ、お前たちは何故英単語を覚えないのか」と口から出かかったものの、「落ち着くから」と退屈な返答をしておいたら慕われた。あのとき辞書を丸ごと覚えようとしていたら友人に「それはやめとけ」と言われたが、覚えておけば良かったと後悔した。
集団が苦手な風変わりな子だったが、そんな私の性格でも「良いよ、お前を許す」「英単語をひたすら覚えようとしているお前でいい」という心の広い友人が各スクール時代にいてくれたので、友人には悉く恵まれていたことを実感する。
振り返ってみると、私は友人たちとは常に一対一の付き合いを好み、3人以上集まって遊んだり出かけたりするというのは非常に稀だった。集団の中に私を目撃する機会があるとすれば、社会人になって忘年会などの席に座っていた時くらいのものだったろう。
私は個人主義者である。
とはいえ、確かに集団主義の日本社会と合わない面を持ってはいるものの、留学生が西洋かぶれして凱旋後にひたすら日本の習俗を批判するように、欧米の個人主義万歳と手放しで称賛する気にもなれない。欧米の個人主義とて万能ではないし、日本古来の習俗は否定できないものだからだ。
私のような人間は、自然に集団主義の日本社会(=世間)のなかでの個人の在り方を常に模索しているものだ。
夏目漱石は日本社会での個人主義をライフワークにしていたけれども、死没から100年以上経つというのに未だに同じテーマを現代人が模索しているということは、人間の本質は変わらないということなのだろう。
空気と世間
「空気」を分析し対象化した山本七平、阿部勤也といった先人によると、日本における「社会」は個人主義から成る欧米の「社会」とは異なるという。日本は欧米から様々なものを輸入してきたが、欧米の個人主義に基づく「社会」だけは統合できず今に至る。
日本に個人主義の「社会」が存在しないのなら一体何が存在しているのかというと、「社会」の代わりに存続しているものは「世間*」である。そして世間が流動化したものが「空気」だという。*世間:阿部勤也氏によると、世間は「自分が関わりをもつ人々の関係の世界と、今後関わりをもつ可能性がある人々の関係の世界に過ぎない」という。
そして日本においてこの「空気」の力は絶大であり、法の前に空気が支配することが多いのだという。確かに、なにか事件が起きた時に「世間体があるから」「言えない空気だった」「そうせざるを得ない空気があった」などの理由で責任の所在をうやむやにして内内に処理したり、間違っていると知りつつも誤った選択肢を選ぶという事例は往々にして見聞したことがある。
空気と世間について、私の実体験を交えて阿部勤也氏の書籍「世間とは何か」の紹介をしていこうと思う。
ママ友の環
兼ねてからこのブログでも批判していた実例がそのまま先人の著に記載されていたことには驚きを隠せなかった。
たとえば学校のイベントでママ友同士が集まると、そこにはママ友という「世間」が醸成される。ママたちは環の空気を優先して笑顔でお喋りを始めるが、周囲の迷惑は顧みない。
授業参観中で周囲に他の保護者が教師や生徒の話を聞こうとしていてもペチャクチャお喋りを続けるし、その場が狭い通路であれば通路を占領し他の通行人に気を配ることさえできない。その後の昼食会では大きな笑い声で他人の眉をしかめさせる。
団体旅行の場合、小さな世間がそこにはできていて、列車の中で宴会がはじまればその世間に属さない人の迷惑などはまずかえりみられることはない
世間とは何か-阿部勤也
もちろんママ友の環に限らず、集団(世間)がそこにあれば、そこに空気が生まれるので、その空気に支配されることになる。一定の空気に支配された環から「またあとで」と抜け出しにくくなることは必至である。
私は集団が苦手で一対一の付き合いを好むので、集団の環に属すことは殆どない。要するに独りぼっち。とはいえ知人ママに会えば会話をするし、特段アンチソーシャルというわけではないので気にならない。
集団の空気に支配されて息苦しい思いをしたくないのであれば、その場に一人で佇むことに恐れないこと。そしてそれに慣れること。その場にいることの第一の目的は何なのかを忘れないこと。
学校にいるのであれば、それが授業参観なのか、子供の送迎なのか。授業参観なら参観を最優先し、お喋りは参観の前後や休憩時間にすれば良いし、子供の送迎なら子供そっちのけでお喋りに興じないこと。
世間話
多くの日本人は海外旅行をしても言葉の問題もあって日本人同士で集まり、その国の人々と付き合う人はそう多くはない。世間の中の付き合いだけで精いっぱいということもあるが、気心の知れない人とあまり付き合いたくないという気持ちが強いのである。私達は個人と個人の付き合いに慣れていない。日本の個人はすべて世間の中に位置を待っているから、初対面の人の場合でもいったいどういう人なのかをまず探らなければ付き合いがはじまらない。どういう人なのか性格なども問題にはなるが、それよりもどういう世間に属している人なのかが問題なのである。そこで初対面の人には、まず出身校や出身地、どこの会社なのか、どのような地位なのかをそれとなく聞き出し、相手がどのような世間に属している人なのかを想定する。そのうえで初めて性格や趣味などが問題になる。世間が違いすぎると親しくなる可能性は低いのである。
世間とは何か-阿部勤也
世間話の仕方には、日本とアメリカで大きな違いがある。
アメリカでは人々は知らない人とも容易に世間話はするが、相手が誰であれ、最初に出身校や出身地、勤務先、地位や肩書を聞く人はまずいない。話の流れで「〇〇出身」ということはあるが、社会的ステータスといったプライベートな話はあまりしないのが普通だ。
現に、家族ぐるみで仲の良いアメリカ人家族のプライベートなことについては私はあまり知らない。どんな仕事をしているか、してきたかについては、ざっと聞いただけで詳しく聞くこともしないし、出身校も知らないし、年齢さえ知らないのである。
ところが日本の世間話だと、仕事は何しているのか、旦那さんは何をしているのか、から始まることが多い。
さらに答え方にも大きな違いいがある。話が職業に及んだとき、アメリカ人は自分が何をする人間なのかを答える。
「私は溶接をやっている」「アーティストです」「教師です」もちろん、名のある大企業に勤めていることがステータスであることはどの国であっても変わらないので、「ディズニーで弁護士をしています」というように紹介することも多いのだが、アメリカの労働市場は日本よりはるかに流動的なので、本人も聞く側もそれを把握しており、結局は企業名よりその人本人が何をやっているか、つまり属性グループより個人が重視される。
しかし日本では「〇〇社に勤めています」といったように、個人のスキルや職種の前に企業名が出てくる方がずっと多い。会社名でその人物の社会的ステータスや年収事情相場がわかるので、どういった世間に属する人なのか判断できるというわけで、答える側も会社という属性を個人に投影してもらおうという願望があるわけである。
いま子どもの学校で一番話す機会が多い保護者は在日韓国人の方なのだが(ちなみに韓国語を話せない)、お互いに仕事を聞いたこともなければ旦那の仕事についても聞いたことがなく、何をやっている人なのかお互いに知らない。プライベートなことを探ることがないので、私にとってはとても居心地が良く付き合いやすいのである。
ここで大事なことは、お互いがお互いのプライバシーを尊重するということだ。だが日本には個人主義が普及していないので、素性の知らない人と話すのは不安で居心地が悪い。そこでお互いの素性を知るためにプライベートな質問をするわけである。
相互干渉
ネットの掲示板を眺めていると、日本では他人の外観や行動を気にする人が非常に多いことに気づく。それはもう「他人のアホ毛が気になる」から「スーツにリュックがダサイ」まで千差万別である。「映画館のポップコーンの咀嚼音が気になる」というような、さながら「クワイエット・プレイス」病的な人もいる。
常識的な範囲で他人の行動や外観が常軌を逸しているのであれば話題になるのは理解できるが、誰に迷惑をかけているわけでもなく自分がまったく知らない他人の容姿や言動がそこまで気になるのは強迫神経症としか言いようがない。
困ったことにこうした過度の干渉は他人という対象そのものだけでなく、自分に対する他人の視線にも向けられる。つまり「この時期にマフラーはおかしいですか?」「いまダウンジャケットを着てたらおかしい?」「〇〇というブランドはもう恥ずかしいかな?」というように、自身の選択と決定を他人の視線という基準に委ねているのである。なんと馬鹿々々しく、ちっぽけなことか。
これらは個人主義者にはあり得ないことであり、個人主義のアメリカではまず見られない現象だ。
日本は過度に管理されている社会なので、細々としたルールやマナー条項が多い国である。これに所謂「世間」の目というものが加わるため、相互に監視し合う社会になっている。これが息苦しさの原因である。
こうした社会では闊達さは望めない。新幹線の席を倒すにも躊躇してしまう人間が醸成されるとともに、もともとそうした闊達さを望む個人主義者からは「いちいち断るな(お前ら一人一人がそうして世間を気にしすぎるからより息苦しい世の中が醸成されていくのだ)」という批判が出る。
新幹線の背もたれを倒すときにいちいち断るなと言ったことで批判されたホリエモンは、息苦しい世間の空気がビジネスの進取性にも影響することを知っているので余計に苛立ちを感じているのだろう。
有名人の謝罪
グローバル化で人とモノの流れが激しくなるにつれ、日本でもドラッグが蔓延してきた。芸能人のドラッグ使用が毎月のように報道されているが、芸能人は保釈されるときまって報道陣の前に立ち、世間に向けて謝罪をする。
私はいつもこの謝罪を訝しく思っていた。謝罪をする相手は関係者とファンであって、世間ではない。世間の人たちは直接迷惑をかけられたわけではないし、容疑者とまったく関連がないのである。
世間を騒がせたことに対して謝罪することも多いのだが、欧米ではこれは考えられないことだ。謝罪をするということは過失を認めたことになるし、謝られた欧米人も、一個人のドラッグ使用が自分と何の関係があるのかと訝しく思うに違いない。
阿部勤也によれば、日本人は自分が世間の環の一員であることを強く意識しているので、自分が逮捕されたことで世間に迷惑がかかると考え、謝罪するらしい。
多少突飛に聞こえるかもしれないが、これは慰安婦問題にも言えることなのではないかと思った。
親の謝罪
驚いたことに、日本では成人が事件を起こした時に必ずと言っていいほど、親が出てくる。親が謝罪をすることもあれば、マスコミが無理くり親にインタビューをしたり、世間が親を槍玉にあげることもある。
未成年なら理解できるが、成人した大人の親が出てくることはアメリカではあり得ない。成人の行動について親が謝罪や弁解をしなければならないのなら、成人を規定する意味がない。
一部の凶悪事件は幼少期におけるトラウマやPTSDの影響が大きいので、遠因的には親の責任もあるが、法の下では成人した子供が犯した事件に対して親には責任はないのだから、親がわざわざ報道陣の前に出てきて謝罪する必要はない。
親と子は別々の人格である。