ミセスGのブログ

海外ドラマ&映画の感想、世の中のお話

「バス運転士が水分補給します」貼り紙掲示:個人の自由の権利を侵犯する社会規範・マナー国、日本

f:id:oclife:20190808115344j:plain

おかしなことにクレームをつける者がいるものだ。

なんでもバスの運転手が水分補給しているのを見てクレームをつけた人がいるらしい。

ごく一部の利用客から「乗務中に飲食はいかがなものか」といった声が寄せられた 

このためバス会社は「運転士が水分補給します」という貼り紙を掲示するようになったという。 

j-town.net

twitterでは、「この貼り紙をしないと理解されないというのが悲しい」「バス運転士はロボットじゃない」「これだけ熱中症の警告がされているのに水分補給するなとはおかしい」といった意見が多くみられた。

以前は、消防士がコンビニに寄った、警察官がコンビニに寄ったといったよく分からないクレームも話題になったようだが、幸い「消防士だって警察官だって人間だ」と擁護する意見が多かったようだ。

同時に、常識から逸れたクレームについて苦言を呈する意見も多かったため、どうやら日本人も「日本社会はどこかおかしい」ということに気付きつつあるようだ。

 

世間による専制社会、日本

日本は安全で清潔で、整然とした秩序が維持されている。誰に言われることなく、ほとんどの人々は列を乱さず、騒乱を起こすことなく、当たり前のようにマナーを守る。

日本人は、もともとの生真面目な気質と和を大切にする気質が合わさって、人類史上目撃したことがないほど社会の秩序の完成度を高めることに成功した。

電車の時刻の誤差は1分以内で、数分でも遅れれば車内に謝罪のアナウンスが流れる。映画館にはゴミが一つも落ちておらず、上映中どころか映画が始まる前もクレジットが始まった後もシーンと静まっている。ポイ捨てする人も少なく、細分化されたゴミ分けもきちんと分けてゴミ出しをする。

とことん極めて完成度を高めるという日本人の気質は、モノ作りという形で世界的にも評価されている。しかしそうした日本人の気質には落とし穴もある。

言うまでもなく人間はモノではないので、モノ作りのように鋳型にあてはめて管理できるものではない。しかし日本は人間に対しても鋳型にあてはめようとする傾向が強い。なぜか?管理しやすいからである。平均的な人間を量産できれば、社会規範から逸脱する人間が減り、秩序立った社会を維持しやすくなる。

世界的にみれば無秩序の国が多いなかで、秩序だった社会は人類が理想ともいえる社会であるが、秩序社会も行き過ぎると新たな弊害をもたらす。人々は秩序社会の維持のために画一的な言動、格好、思考、嗜好、価値観を持つよう期待されるようになり、自然と社会規範を他人にも強制するようになる。いわば世間による専制社会、あるいは慣習による専制社会だ。それは「息苦しい」「生きにくい」「周りの目が気になる」という閉塞感を生み出す

個人が「息苦しい」「生きにくい」と感じる社会に生きる人々の幸福度は低い。他人が相互に監視し合う社会では、一人一人が萎縮してしまう。小さなことを気にする社会では、大きな偉業をやり遂げることはできないし、そこからイノベーションが生まれることはない。

 

個人の自由を侵犯する社会規範・マナー

日本では数えきれないほどの貼り紙を目にする。トイレ、駐車場、スーパー、コンビニ、駅、電車内、バス内、お土産屋、博物館、どこにいっても貼り紙だらけだ。ときに貼り紙が多すぎて目的の情報を探し当てられないときもある。

なぜそんなに貼り紙が多いかというと、それはもちろん秩序を乱す一定の人物への教訓で、秩序を維持しようという涙ぐましい努力である。

貼り紙が殆どないアメリカに住んでみると、日本の貼り紙が景観を著しく乱していることに気付くし目障りで仕方がないのだが、景観よりも秩序を優先したいのだろう。長期的にみれば美しい景観は犯罪を減らす効果やマナーの向上、人々の心を気持ちよくさせるという相乗効果があるのだが、意外にも日本人はこの点に無頓着である。

多数の貼り紙を掲示するという措置は、客が子ども扱いあるいは原始人扱いされているも同然で侮辱的であるということに気付くべきなのだが、日本人は貼り紙は秩序社会を守るための犠牲と考えている。故意・過失を問わず和を乱す少数人民にケースバイケースで対応するより、貼り紙を次々と貼ることによって全体が社会規範・ルール・マナーを共有するように画一化するほうが望ましいというわけだ。

今回のバスの車内の貼り紙は本来なら必要のない貼り紙だが、乗務中に飲み物を飲むことを良しとしない人物がクレームをつけたのでやむを得ず貼り紙を掲示した次第だ。

必要な貼り紙ももちろんあるのだが、今回のバスの貼り紙は日本社会がいまどんな状態にあるかを端的に示すものだった。

個人の自由は、他人に害を与えない限り認められなければならない。乗務中に水分をとることで、他人に害を与えることはないし、熱中症の危険も考えれば自身の生存に関わることでもあるので、その権利を奪って万一乗務員が脱水症状や熱中症をおこせば、過失責任が問える(故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。民法709条)。

バスの運転士の水分補給にクレームをつけた者は、社会規範・ルール・マナーを押しつけて個人の自由を侵犯したことになる。

運転士、レジ打ち店員が飲みものを飲んだりガムを噛んだりする行動は、他人の利害に関係ないし、社会に対する責任は負わないはずだ。たとえば運転士が酒を飲みながら運転していたら、それは他人の利益を害する行動であるし、法律で罰せられる。

法律違反ではなくとも他人に害が及ぶ行為をすれば、それは世論・世間が罰するというメカニズムを社会はもっている。

仕事中の水分補給は、完全に個人の自由の範疇であり、たとえ会社であってもそれを禁止する権利はない。

アメリカ人に言わせれば、it's none of your goddamn business の一言で終わる話だ。水分をとったことで誰かに迷惑をかけたか?かけていない。それなら文句を言われる筋合いはない。個人の自由の範囲内の行動であり、社会にも世間にも咎められる謂れはない。シンプルな話だ。アメリカ人はお馬鹿な言動をする者も多いが、こと自由の権利については一人一人がはっきりと認識しており、自由を守るためには犠牲も厭わず立ち向かうので、日本人にとっては大いに学ぶべき点である。 

 

対応策

個人の自由の権利に対する意識を変える

日本人はもともと集団主義で、集団の目的のために個人を犠牲にすることを厭わない民族であった。この意識は少しずつ変えていかなければならない。

まずは個人の自由の権利について知ることだ。クレームを付けられたら、果たしてそれが他人の利害に及ぶ行動なのか考えてみるとよい。

バス運転中に飲み物を飲んで咎められたとしても、他の人の利害に関与しないのであれば、誰にも謝罪する必要はない。

これ以上の貼り紙も必要ない。貼り紙はすでに世界的にみて稀なほど高等な社会規範とマナーを守っている日本人をさらに細かく縛り付けて息苦しくさせるか、あるいは私のような生意気な人間を「我々は子どもか、侮辱的」と不快にさせるだけである。貼り紙を貼ったところで、クレーマーは次は別の行動を非難するだけだ。だから日本の貼り紙は次々と増えていく。

根本的な解決を目指すには、一人一人が個人の自由の権利を意識すること、自身の自由の権利を守ろうとすること、他人の自由の権利を侵犯しないようにすること(他の人たちに利害をもたらしている場合を除く)、これだけだ。

個人の自由の権利どころか熱中症の危険さえ理解できずに干渉する人物は、社会を画一化して一人一人の活力を奪い、ひいては国家の活力さえ奪う社会悪そのものである。

一人一人が個人の自由の権利に対する意識を高めれば、相手の自由の権利の範囲も理解しやすくなり、侵犯することも少なくなるだろう。

個人の自由の権利を侵犯する干渉には無視か毅然とした対応をする

和を大切にする日本人は、たとえ自分に非がなくとも、その場を収めるために謝罪をするという悪い慣習が身についてしまっている。

広義でいえば、韓国が慰安婦や徴用工について恫喝してきたためにその場を収めようと事なかれで謝罪したことなどがある。この悪習は、ときに国家の評判をひどく毀損するほどの破壊力を有する。

この悪習は断ち切らなければならない。

客からのクレームに一個人で立ち向かうにはとても勇気のあることだ。たとえ客が間違ったことを言っていても、「お客様は神様」精神が日本全体から抜けない限り、客の言いなりになってその場を収めるために謝罪してしまうことは少なくないだろう。

企業は個人より力があり、戦う余力がある。したがって、企業は不合理なクレームや従業員の個人の自由の権利を侵犯するような干渉クレームには注意を払わない、あるいは論理的に反論するといった気概を見せてほしい。

自分たちの目指す社会はどんな社会なのか一考する

自分たちの目指す社会について、いまいちど一考してみるのも悪いことではないかもしれない。それは秩序が保たれているが一切のマナー違反や社会規範の逸脱を許さない画一的な社会なのか(画一化されているほど国民は管理されやすくなり、奴隷化しやすいことを忘れないことだ)、それとも秩序が保たれつつも一人一人が他人に利害を及ぼすことのない領域で個人の自由を謳歌できる、寛容さと秩序のバランスがとれた社会なのか。

少しばかりの勤勉ぶりやロボットのように業務をこなす姿を他人に見せて僅かな効率をあげるより、一人一人が道徳や知的な成熟ぶりを高め、個人が活力を発揮できるほうが豊かな社会になるのではないだろうか。