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マナーやルールが徹底した社会は、本当に理想の社会なのだろうか?

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とある記事が目に留まった。

「日本と中国、住みやすいのはどちらですか?」という質問に、実際に両国に数年間住んだことのある英語圏の外国人が答えていたものだった。

彼は日本の清潔さや人々のマナーの良さ、親切さを長所に挙げながらも、日本より中国のほうが住みやすいと答えていた。

その理由としては「日本は人々がお互いに監視し合う社会で息苦しい。日本人は規格外の人間に容赦がなく社会的に排除しようとする」というものだった。中国は、環境汚染も酷いし、中国共産党による監視や締め付けが厳しくマナーも悪い人が多いが、生活している上で息苦しさはなく自分らしくいられるという意見だった。

意外な答えに少々驚きながらも、私には彼の言わんとしていることが理解できた。

ほぼ10年ぶりにアメリカから戻ってきた日本はけっこう様変わりしていた。日本は10年前よりもマナーや局地的ルールが厳しくなっていた。公共エリアには所狭しとあらゆる種類の注意書きが貼られており、ときにお目当ての情報を探すことを困難にする。マナーを守らない人の一挙手一投足をけん制するために一つまた一つと貼り紙が増えていったのだろうと想像した。

本来であれば常識的な最低限のルールだけを掲げるだけで十分なはずだが、日本では常識的な範囲を超えて事細かくマナーを遵守させようと涙ぐましい努力が重ねられている。

ふと、日本はもともと比類なく高度な秩序保たれている国なのに、これ以上マナーを厳しく課してどうするのだろうかと思った。

あまりにも細かいマナーやルールの徹底を強制すると、規格的な行動規範への固執が強まる。すると、個人で判断して行動するという自律性を奪うだけでなく過度に他者の視線を気にする強迫神経症に罹患させてしまうのではないだろうか。そして、規格外の人間を異端視する排斥にもつながるのではないか。

 

マナー違反を相互監視する社会

ゴミの過分な分別細分化は消費欲を削ぐ原因の一つだが、分別が決められた規格レベルまで達成されていないと周囲は眉をひそめる。なかには注意されることもあるし、ゴミを持っていってもらえない場合もあるらしい。自治体によって許容度の差はあるが、ゴミ分別化が厳しいほどその自治体を住みにくいと感じる人は多い。

日本の場合、ゴミ分別化を内容を見直す、つまり体制を見直すという選択肢にはならず、規格レベルを満たさない個人が批判される。

映画館の「スマホの電源オフ」という注意喚起は、映画上映中にスマホ画面をいじる非常識な人が一部いたためにスクリーン上でしつこいほど注意喚起されるようになった。現代の多様性を包含した世界には、常識的な人も非常識な人もいるので、上映中にスマホをいじる人も存在する。

人は「これだけ注意喚起されているのにスマホをいじるとは何事か」とSNSに批判を投下する。批判は拡大炎上していき、故意にスマホをいじる行為だけでなく「うっかり」OFFを忘れてしまったという過失さえも断じて許さない空気が醸成されていく。

さらに火種は「お喋りをする奴」に飛び火し、「一切のお喋りを許さない」空気が醸成される。このため、日本の映画館は上映前後であってもシーンと静まり返り、たとえコメディ映画を観ていても人々は笑い声を出さず、それどころか笑い声を抑えるという異様な光景ができあがる。

挙句は「モノを食べる咀嚼音がうるさい」という強迫神経症のような人が現れ、人はポップコーンを食べるときは映画の効果音やBGMがうるさくなったときに限定し、シーンとしている時にはポップコーンの手を休めるといったように、個人の行動を縛るような非人間的な空気リーディングが発生する。

高度な公共秩序を維持するために、こうして相互監視社会が作られる。相互監視をしてお互いの行動を縛るのだから、息苦しくなるのは当然である。

 

規格外は排除される

夢の国に赴いてみると、群衆はショーの際に「ここからここまでは着席エリア」「ここからここまでは立ち見」と管理される。「ショーの開演〇〇分前までには地べた座りエリアに戻ってください」と管理され、立ち見エリアにいる人の一人が立ち見と理解しながらもショーの開始10分前くらいに膝をつくと「そこは立ち見エリアなので座らないで下さい」と注意されていた。(実際に目撃した。)

大袈裟かもしれないがこれは個人の自由の侵害に抵触するレベルの管理体制だと直感的に思った。ショー開始後に着席エリアに立てば後方者に迷惑なので注意されて当然だが、そこは立ち見エリアでショー開始前だった。数秒膝をついた人が注意されるというのは過度な干渉と感じたし異様に見えた。軍隊じゃないのだから。

その人はただ単に疲れただけなのかもしれないが、何か落として拾っていたのかもしれないし、具合が悪くなったのかもしれないし、腰痛をお持ちの方なのかもしれない。一人一人事情があるはずだ。その方が立ち見エリアで一瞬膝をついたとしても、周囲に迷惑をかけられている人はいない。

しかし、おそらく着席エリアについている人たちは、きっとそのシーンを目撃しても「座りたいんだったら着席エリア選べばよかったのに」と思った人が多いのではないかと推察した。

これがアメリカであれば最初から観客の細かな整理はなされず、ロープだけ引っ張ってあとは個人の自律性に任される。何か言われれば本人か周囲が係員にかけあっていただろうし、運営側の注意が度を超していれば周りが必ず声をあげる。安全が優先され、周囲に迷惑がかかっていないのであれば、係員がアメリカ人の行動をそこまで縛ることはできない。

しかし日本ではその場の管理体制に従うしか選択肢は与えられていない。管理社会にどっぷり浸かっている者が管理体制に疑問を抱くことは期待できないし、むしろ彼らは管理から外れた逸脱者を異端視する。

運営側からしてみると、こうした規格外の人が出現すると全体の秩序が守れなくなるのでやむを得ない一面もあるのかもしれない。人口過密な中で壮大なプロジェクトを運営するにあたって、小さなマナー違反・ルール違反を摘み取り、全体の秩序を図らなければプロジェクトは成功しないという厳然たる意志の表れは理解できる。

しかし私にはどうしてもこの光景は異様に感じられた。これほど行儀もマナーも良くて高度な秩序が保たれている日本で、そこまで個人の行動を縛る管理体制が本当に必要なのだろうかと。

こうした管理に慣らされた人民が管理体制自体を批判することはない。批判の対象はいつも管理体制に迎合しない規格外の人に向けられる。この場合での批判は立ち見席で腰を下ろす人に向けられる。「ルールを守れないなら来るな」というのが暗黙のルールで、「立ち見席に立てないようなら最初から座り席を選べばいい」というように、その人の事情を疑ってみる機会や、管理体制を疑う機会は鳴りを潜めてしまう。

いっけん尤もな主張だし、日本人の私としては理解もできるのだが、そこには寛容さが感じられないし、ときに危険な空気を感じる。

 

自律性を奪い相互監視する社会はどこへ向かう 

そもそもマナーや局地的なルールは法律ではないので、人によって解釈が若干異なる場合もあるし、人の善意や常識的な規範を促すものであって人に強制するものではない。

しかし日本には他国には見られない世間の「空気」なるものが存在していてその力は絶大だ。この空気が、マナーやルールを徹底させた管理社会の創出に一役かっている。

映画館でマナー違反をする者をいれば過剰に注意喚起しマナーを徹底させるような空気を醸成し、他人に迷惑をかけてなくても規格レベルに達しない者はその理由如何を問わず排除するのが当たり前だという雰囲気の社会は、本当に理想の社会なのだろうか。

自律性が奪われ、相互監視が強い社会の創出は、日本人を幸せにすることに繋がっているのだろうか。

むしろ自律性が奪われ、相互監視が高まると、社会は閉塞する。新しい風は吹かず、奇抜な意見は生まれず、イノベーションが起きない社会に鈍化し、やがて国全体が疲弊して衰退していくのではないだろうか・・・