マット・ディロンが連続殺人鬼になって12年間殺しまくる映画「ハウス・ジャック・ビルト」の感想です。
カンヌで上映され、女性や子どもが殺されるという残虐なシーンに100人以上の人が離席したといわれている問題作です。
R指定なので18歳未満は観ることができません。
【ハウス・ジャック・ビルト】作品情報
原題:The House That Jack Built
製作:2018年
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:マット・ディロン、ユマ・サーマン
放映時間:152分
監督はラース・フォン・トリアーで、代表作に「アンチクライスト」「奇跡の海」「ドッグヴィル」「メランコリア」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」「ニンフォマニアック」といった見事な鬱映画が並ぶ。
ちなみに初めて知ったのだが「アンチクライスト(2009年)」「メランコリア(2011年)」「ニンフォマニアック(2013年)」の3作をもってトリアーの「鬱三部作」と言うらしい。
ていうか全部、鬱じゃねえか。鬱3部作どころか6部作(ヘクソロジー)だろ!ちなみに監督はこの他にも鬱映画を撮っているはずなので、8部作(オクタロジー)はおろか、10部作(デカロジー)くらいはいってると思います。数え切れないのでポリロジー(2つ以上あって数えきれない)でいいと思います。
しかも。しかもだよ?
放映時間は152分です。長ッ。
連続殺人スリラーものでこの長さって…なんで?なんでこんな長い?連続殺人鬼の映画にそんなに尺要る?
連続殺人を152分も観なきゃいけないのか…と思うとそれだけで憂鬱になるので、観る前からラース・フォン・トリアーの鬱の魔術は始まっているようです。
【ハウス・ジャック・ビルト】あらすじ
1970年代~1980年代に米国ワシントン州で12年にわたって人を殺してきた連続殺人鬼ジャックの姿を描く。
【ハウス・ジャック・ビルト】感想
70年代~80年代はまだFBIのプロファイラー(凶悪犯罪の犯人を行動科学の見地から捜査して犯人の性格や特徴、行動範囲などを分析する)ができたてホヤホヤだったので(1972年に行動科学科が設立)、それ以前は連続殺人犯が暗躍していた時代でもある。
ただ70~80年代に12年間も「仕事」していた連続殺人鬼でジャックなんていうのいたっけ…?と思っていたところ、どうやらジャックは架空の連続殺人鬼のようです。
「モデルとなった人物」がいるんじゃないのかと思ってググってみたが、唯一得られた答えは「連続殺人犯のモデル=監督」だけだった。
監督がこの連続殺人鬼ジャックのモデル…
まぁ、知ってましたよ。
ホラー大好きなんですけど、正直スラッシャー映画は割と苦手なほうなので、この映画を観るのもちょいと勇気要りました。なんせ鬱を愛する監督ですから。というわけで明るい気持ちで鑑賞&感想を述べようと心がけました。
1人目の犠牲者はユマ・サーマン。ご存知クエンティン・タラちゃんがベタ惚れの女優で、タラちゃんに見初められたユマちゃんは90年代に「パルプ・フィクション」で黒髪おかっぱ頭でトラボルタと華麗なるツイスト・ダンスを披露して男も女もウットリさせた。
しかしその後、「キル・ビル」の撮影で「車の運転が苦手なのでスタントマンにやらせてほしい」というユマの訴えを聞かず、「流れる髪の毛を綺麗に撮りたいから64km(細けえ)で走れ」というタラの押しを振り切れず、やむを得ずみずから運転したユマはヤシの木に激突してしまう。
事故で首と膝に後遺症を負い、現在もダメージは残ったままだという。(こちらのリンク先でタラが15年後に公開した事故の動画を見ることができる)
ユマは#metoo運動で無事に追放された業界の重鎮ハーヴェイ・ワインスタインによるセクハラものちに告発したが、タラに無理強いされた運転の結果での事故のほうがもっと許せなかったようで当時タラを告訴している。
そんなユマ・サーマンはいつのまにか普通の有閑マダムになっていた。
ユマちゃんは雪道でパンクしたタイヤの交換をしていたのだが、ジャッキがぶっ壊れてしまい立ち往生していた。そこにマット・ディロンが通りかかり、ユマを助けようと思わせつつユマを殺そうとする…というわけでもない。
セオリー的にいけば、善良で無垢な女性を理由もなく殺す殺人鬼という構図が浮かぶのだが、この映画のユマはものすごく嫌な女を演じている。
マット・ディランが車を停めるとユマがやってきて
「みての通り、ジャッキが壊れちゃってー。ジャッキ持ってる?」と聞く。
「持ってない」
「あらそう?ここらへんじゃ皆持ってると思ったんだけど。じゃあ、私どうしたらいい?」
「…5マイル先に修理工場があるよ」
「じゃあ、乗っけていって」
といってユマはマット・ディランの怪しい真っ赤なバンに乗り込む。
乗り込んだ早々ユマは
「ママに言われてるのよねー、知らない人の車に乗るなって。ほら、シリアルキラーだと困るでしょ?」
「あなた、シリアルキラーじゃないの?なんかそんな顔してる!」
「多分このバンのせいね。このバンだったら死体を運ぶのにうってつけ。あの辺に死体を埋めるといいわよ。でも埋める時は6フィート掘らないとダメよ、キツネが掘り出すから」
と初めて会った相手と不適切かつ失礼な会話を始める。
マット・ディランはユマの無礼なお喋りに耐えながら、無事に修理工場までユマを送り届ける。
ユマは無理やりマット・ディランの足を止めて「つーか、終わるまで待っててよ。そんでまた送ってよ」と勝手なことをいい、修理工場のおっさんにまで失礼なことを言ったあと、マット・ディランに車まで送ってもらう。
戻りの車中でもユマは
「あんたヘマしたね。連続殺人犯が捕まらないのは、犠牲者と知り合いじゃないからよ。修理工場のおっさんに私たちが一緒にいるところ見られたでしょ?大きな間違いよ」
と延々と連続殺人犯の掟を語る。五月蠅いことこの上ない。
マット・ディランは直ったジャッキでタイヤを交換してあげようとしたが、ジャッキがまた壊れる。
マット「もう僕いかないと。こんなことしている場合じゃないんだ。用事あるから」
ユマ「はっ?なんの用事よ」
マット「あなたには関係ありません。他の連続殺人鬼の車がやってくるよ。多分、修理工場に行く前に殺されるだろうけど」
ユマ「お願ーい、最後だから。プリティ・プリーズ」と魔法の言葉を放つと、勝手にマットのバンに乗る。
乗ったら乗ったらでユマは愉快に
「あなたに言ったこと撤回するわ。連続殺人犯みたいって言ったこと。あなたみたいにチョー情けない男に殺人は無理だわ」
めっちゃ楽しそうに侮辱するユマ・サーマン。
こいつ頭のネジ緩んでんのか?
かくしてユマの口は永遠に閉ざされることになる。もちろん自分のジャッキで。
ユマの殺人をきっかけに、マット・ディロンは連続殺人を始める。何故かは、私もよく分からない。
第2の犠牲者はシオバン・ファロン。怪訝な顔をすることにかけては他の追随を許さないベテラン女優だ。(同監督の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に出演している)
マット・ディランとはドラマ「ウェイワード・ペインズ」でも共演しているが、そこでもマットに怪訝な眼差しを向けている。マットがよほど嫌いなのだろうか。
シオバンの家をノックして警察を名乗るマット。ドアは開いているがスクリーンドア(網戸)は締まっている状態で、二人は怪しい会話を取り交わす。
マット「えーと…私はあのーそのう…そう、警察です。ちょっと…入っていいですか?お手間は取らせませんから」
シオバン「ダメ」
マット「ダメ?」
シオバン「ダメ。バッジ見せて」
マット「よくできました!それこそ我々が市民に取って欲しい態度なんです。ほら…安全のために?」
シオバン「…で、バッジは?」
マット「バッジは…持ってません。昇進したので、アレだ…磨き?に出してる?ツヤツヤにするんだそうで?」
シオバン「…なんの役職に昇進したの?」
マット「…わかりません」
シオバン「…」
マット「旦那さん、いつ亡くなられましたか?」
シオバン「6か月前だけど…なんの関係があるの?」
マット「いや…えーとあれです。年金を2倍に?することができるかもしれないので…」
シオバン「2倍?いま2倍っつった?…でもなんで警察が?」
マット「実を言うとぉ…私は警察ではないです」
シオバン「…」
マット「えーと、保険外交員てやつです」
シオバン「…ええっ?保険外交員?でもさっき警察って…」
マット「最初はそう名乗れって言われるんです。…統計上の目的で?とかなんとか」
どう考えても怪しい奴なのに、シオバンはマット・ディロンを家の中に入れてしまう。
そんなバナナ。
この辺まではブラックコメディのようで連続殺人犯コンテンツに関わらず、クスッとしてしまう魅力がある。
ところがこれ以降がつまらない。自らを「ミスター・ソフィスティケーション」つまりミスター洗練と呼ぶマット・ディロンは殺人を犯すごとに技巧を磨いて洗練させていくのはいいとして、延々とヴェルジュ(声の出演のブルーノ・ガンツ)に語り続ける。
しかも内容が西洋アートや哲学、ナチス、毛沢東、たまに昔の建築等々。昔のピアノ伴奏動画なども出てくる。どなた様だろうか。前半のクスッとしたトーンはこれ以降、影を潜める。(美術家なら楽しめるし意味が解るのかしら。)
ちなみに最後の方はマット・ディロンがアートの世界に入ったりする。
さっぱり意味が分かりませんでした。
このあとずっとロッキーみたいになってるし。
かと思うと、子どもの頃、父や労働者たちが大鎌(死神が持ってるやつ)で草を刈っているシーンを思い出して涙を流すし。え?なんで泣いてんの?
最後もよく分かんない。ロッキーの格好して、ロードオブザリングの指輪捨て山みたいなシーンがでてきて、ロッククライミングしたりする。
なんでロッククライミングしてんの?
分からないことだらけでした。
呼吸をあわせて大鎌をふって草を刈るシーンだけは美しかった。呼吸の音と草を刈る音だけが響いてなんともピースフルなのね。
結局、最初のクスッとした時間以外は、マット・ディロンが延々と殺し語りしながら一人芝居をしているセルフパロディのようで、衝撃的な描写だけで視聴者の注意を引きつけているだけに過ぎない。
悪趣味なことに、私は本でも映画でもドラマでも連続殺人犯を描いたコンテンツはよく手にしているのだが、だからといって連続殺人犯の心情を知るのが大切というわけではなく、むしろ殺人犯の意見なんてどうでもいいわけです。
連続殺人犯も大量殺人犯も根底には注目されたい願望があり、メディアで取り上げたり、新聞や雑誌の表紙に殺人犯の顔を載せたりというのは完全に愚かなことで、殺人犯の自尊心を満たし、満足させるだけなのです。それを与えるのは社会の利益に見合いません。
だから連続殺人犯(ここではマット・ディロンのジャック)の戯言なんか延々に聞いてなんかいられないんだよ!
惜しい、実に惜しい。最初のダークコメディ路線でいったら「デクスター」並みになったかもしれないのに。
インテリジェントで秩序型の連続殺人犯という設定で、子どもの頃に小動物を虐待したり、OCD(強迫神経症)があるといった性質を味付けしているものの、手口も違うし殺し方もバラバラだし、OCDを発揮するのは2人目の殺人現場くらいのもんで、他の殺人は本当に雑だし、ターゲットもバラバラ(男も女も子供も)だし、あまり説得力がないんだよなぁ。
カンヌの上映で100人以上が席を立ったのはママンと息子2人が殺された時の「ファニーゲーム」並みの胸糞の悪さのせいかと一瞬思ったのだけれど、実はみんな
「・・・ワケ分かんないなぁ・・・」
と思いながら立ったんじゃないの?
ポスターはアートっぽくて洗練されているけれど。
ちなみに2人目と3人目の間に2人殺してる。お楽しみはここでオシマイだ!
3人目のママンは小さい息子2人と一緒に天に召される。
いや、監督はその格好、やらなくていいだろ!