ミセスGのブログ

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差別をなくすために私たちができることは何だろう

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良いか悪いかは別として、「差別をしない」ということは人間心理や生存本能に逆らうことなので、人間が差別をしない世界は存在し得ない。だからこそ「差別はしてはならない」と明文化された法律がある。

差別をなくしたいけど、個人レベルでどうしたらいいのか、今日はそんなことを考えてみる。 

 

差別をなくすために私たちができること 

異質なものへの警戒心、恐怖心を減らす

さて、差別の根底にある、異質なものへの警戒心や恐怖心と一体どう付き合っていけばいいのだろうか。

わたし個人の経験から言えることは、教育や異文化交流、自分と外見が違う人に触れるチャンスが増えて行くことで、警戒心、恐怖心は少しずつ払拭されていくということだ。

海外旅行に行くだけでもいい。短期でも長期でも、自分が「外国人」という「異質」なものになってみるのは、いい経験になる。実際に海外に出て、白人、黒人、ヒスパニック、インド人、中東の人、ロシア人等々を自分の目で見て、目を慣れさせる。

とりわけ極端な同質性に陥って心地良さより息苦しさを感じるようになってきている現代の日本社会では、異質なものに触れる機会が少なく、目からして慣れていない。そのため、目視によって多様性に触れることは意外に大切なことである。

海外にある程度長い期間いる人なら、人種差別を受けたことがある人が多いと思う。でも自分が差別されて初めてその痛みが分かるようになるので、その経験は無駄ではない。

本やインターネットを通じて、他人種の文化や風習、慣習を勉強して慣れ親しむのもいい考えだと思う。世界にはこんな人がいるんだ、こんな食生活なんだ、こんな文化や風習があるんだといったように見聞を深める。

 

自分の体験、見聞きした情報は、氷山の一角であることを認識する

人間というのは「自分が見聞きしたことがすべて」の法則に容易に陥る生き物である。もっと悪いことには、そのとき、真実はたいして重要ではない。

たとえば韓国が総出で触れ回っている慰安婦の問題。アメリカでたびたび慰安婦の映画や展示会を開いているが、それを見た人々は、この法則にしたがって、涙を流し、「こんなことがあったなんて知らなかった」とインタビューに答える。そのとき、真実かどうかはもはや関係がない。(ちなみに現在は「軍艦島」で強制労働されたというウソをねつ造し、韓国やアメリカで映画が上映されている。)

これが差別の元となる偏見や先入観を助長してしまう。こうした慰安婦や軍艦島の虚構に基づく映画を見た人たちは、戦時中から植え付けられている「日本軍は残虐」というイメージに結び付ける。

現代の日本人とは違うという冷静さと良心を持ち合わせている人であればいいが、中にはこうした理由から今でも日本人を憎悪する人も少なくない。

人々が自分が得た知識の裏付けをとることや得た知識を疑うことを怠らなければ、差別はずっと少なくなるだろう。

 

悪意なき差別に注意する

アメリカやヨーロッパのような多人種国家ではあまりみられないが、日本のような単一民族の国に外国人という異質性が入ってくると、異質なものへの対応の仕方が分からないために悪意なき差別をしてしまう人がいる。マイクロアグレッションと言われるものだ。

映画「ズートピア」は、子供むけの映画だが、悪意なき差別を分かりやすく描いた映画なので、大人の方にも是非見てもらいたい。

外国人を褒めようとしてうっかり失言をしてしまっている人もよく見かける。たとえば「頭が小さい」「顔が小さい」などは日本では褒め言葉だが、外国では「脳ミソが小さい=バカ」と思われるので決して言ってはならない。

他には、「鼻が高い」など、白人にしてみたら鼻が高いのは当たり前のことで、むしろ高い鼻やデカい鼻がコンプレックスの人の方が多い。「痩せている」なんかも「=不健康」と言っているようなものなので言ってはならない。

日本人は集団としてのマナーがいいくせに、とかく自分たちと異なる人の容姿にコメントしたがる一面を持っているので注意が必要だ。人の容姿にかかわることは一切言わないでおけば間違いない。褒めたいのであれば「元気そうだね」とか言っておけばいい。

 

差別心は遺伝することに留意する

人種差別的な両親に育てられた子どもは、ほぼ間違いなく差別心を植え付けられて育ち、自身も差別的になる。

当たり前と言えば当たり前なのだが、普段から口汚いスラングで罵っている両親がいれば、子どもは同じように口汚い言葉を使用する。両親がふだんから人種差別的な言葉を使っていれば、子どもは当たり前にも人種差別的な言葉を使う。

 

私のケース

そういう私はどうなのかと言うと、多人種が住むアメリカの日常生活では「差別をしないように平素気をつけている」というのが本当のところだ。

差別的な言葉にはやはり嫌悪感を覚える。昨日ドラッグアディクトが住んでいた隣の家の前で、旦那が立ち止まっていた。「どうした?」と駆け寄ってみると、旦那は「やつらはレイシストだった」と言った。家の中をふっと見やると、部屋の壁に「No Niger Allowed, White World」とマジックで書かれていた。直接それを目にすると、やはりショックなものである。

また、差別的と取られかねない発言をしないように注意も払っている。相手が白人だろうが黒人だろうがアジア人だろうがヒスパニックだろうが、フェアでフラットな気持ちを持つように心がけてはいる。自分とて海外で差別を受けた経験がある人間だ。

とはいえ、わたしだって先入観や偏見からは逃れられない。言動に出さないだけで、心の中で人には言えないような思いがよぎったりすることもある。差別を絶対にしていないとは言い切れない。自分が無意識のうちに差別している可能性はゼロではないのだ。

人種別の犯罪率や、その人のバックグラウンドとなる国のイメージ、自分の頭にインプットされている情報が、フェアであろうとする自分の脳を阻害することがあるからだ。

だが幸いなことに、私はそのことを恥じる気持ちを併せもっている。また、アメリカで良き人たちとの小さなやり取りが、その偏見やステレオタイプを払拭しようとしてくれる。自分が住んでいる辺りは治安もいいし、気のいい人も多い。

 

まとめ

この世から差別がなくなることはない。私たちにできることは、教育を通して、差別がもたらす悲劇や、オープンマインドでいることの重要性などを学んでいき、自分の中の差別心を恥じる気持ちを持つこと、無意識のうちに自分が差別しているかもしれないという可能性に留意することだ。

そして日本人なら、同質性の呪縛からいよいよ抜け出す時がきている。日本で差別をなくすためには、まずこの同質性から解放される必要だろう。