世界はこれまでにないほどの速さで動いている。
グローバル化が進み、モノ、カネ、人、イデオロギー、宗教、情報、サービスが国境を越えて流通している。日本は創始以来、比類なく均一性・同質性を貫いてきた民族だが、そんな日本もグローバル化を受け容れることを選択した。
グローバル化の主砲インターネットの普及によって、私たちは地球の裏側で起きている事象を瞬時に知ることができるようになり、地球の裏側にいる人たちとも簡単につながることができるようになった。
大企業を中心に工場が先進国から途上国へと場を移し、人々はお目当ての商品をより安価に手に入れることができるようになった。
90年代後半にメディアが率先して提唱したグローバル化に、人々は新しい希望と幻想を抱いた。
グローバル化の本質を理解するまでは。
グローバル化とは何だったのか
換言すれば、グローバル化とは、多国籍企業が国境を取っ払って安い労働力を手にするとともに、世界中の人々に商品を販売し、利益を最大化するという究極の資本主義に則った戦略であった。
多国籍企業が経済活動するにあたって、国境や国という概念は邪魔でしかない。国を超えれば関税という重税が課される。デニムを売りたい企業にとっては民族衣装は邪魔なだけだし、フードチェーン店は郷土料理よりハンバーガーやピザを食べさせたい。企業活動の中で最もコストがかかるのは人件費なので、母国の人間を雇うより、途上国の人間を雇ったほうが安い。
アメリカの多国籍企業はロビー活動に大枚を費やし、政治家をも操る。もはやアメリカをコントロールしているのは政治家ではなく企業といっていいのかもしれない。
多国籍企業がグローバル化を強硬に推し進めた結果、世界は文字通りグローバル化に成功した。しかしグローバル化には必然的な副作用があった。
国境を超えて移民が流入したので、国民は安い賃金でも働く移民との競争を敷いられた。正社員は金がかかるので、解雇や早期退職によって数を減らされ、小泉内閣が推進した構造改革によって派遣社員や契約社員といった非正規社員が激増した。
さらに途上国への工場移転、AIとオートメーションといった技術発展により、母国の労働者たちはどんどん職を失っていき、日雇い労働者しか道が残されていあない国民も増えていった。人件費が安くなったので安価にモノが手に入るようになるどころか、職を失った人たちはそもそもモノが買えなくなった。
2017年のフランス大統領選でマクロンに敗北はしたものの、反グローバリズムの勢いを盾に2位を獲得したフランスの右派政党国民戦線の党首マリーヌ・ル・ペンは、グローバル化を
奴隷が製造したものを失業者に売りつける
ようなものだと述べている。
一方サイバー空間では、本来なら接触することのなかった価値観・考え方・イデオロギーが異なる人々たちがつながったために、摩擦や紛争が増えていき、インターネット上は憎悪の場と化した。インターネットが新たな戦場と化したのである。
他の先進国同様、日本は深刻な少子高齢化という社会問題を抱えている。少子高齢化の解決策は2つだ。出生率を上げるか、移民を受け入れるかである。
国民感情や治安の維持を考えると本来であれば出生率を上げることがベストな選択なのだろうが、日本政府は重い腰を上げようとせず、日本の出生率は1973年から右肩下がりのままである。
そのため、日本への移民は1991年から右肩上がりで、特にこの6年で激増している。私は2010年に日本を出て2019年に日本に戻ったのだが、体感する移民の増加と一致している。
今までの常識が通用しない世の中になる
終身雇用が保証されていた伝統的社会の日本の姿はもうない。グローバル化はこれからも加速し、移民の数は増えていく。
大企業は人件費を抑えるために「金食い虫」である母国の労働者を切り捨て、安い労働力のある途上国へとアウトソーシングを進める。トヨタははっきりと「終身雇用は難しい」と公言しているし、パナソニック、東芝、NECといった大手企業も軒並み正社員を減らす方向に動いている。
大企業に就職できれば安泰だという保証はもうどこにもない。かつては良い成績をとり、良い大学を出れば、良い企業に就職できて将来は確約されたも同然だった。だが、今後はそれが通用しなくなってくる。
今後は移民が増え、英語を話せる人材も多くなる。すると、バイリンガルで押しの強い人材と対等にやりあっていかなければ生き残ることはできないという厳しい世の中になる。
さらにAI・オートメーション化の流れも加速していく。このため、機械にできる仕事、反復性のある仕事は失われていく。また、途上国の人たちにできる仕事も失われていく。
世界は人類がこれまでに経験したことのないスピードで動いているので、今までの常識が通用しない世の中になる。
21世紀に学歴より必要になるかもしれない非認知能力とは?
では私たちはこれからどうしたらよいのだろうか。これからを生きる子どもたちは、混沌としたグローバルな世界にどう対処していけばよいのだろうか。
いま、子どもたちの教育現場で見直されつつあるのが「非認知能力」と呼ばれるものだ。
非認知能力とは
やり抜く力、好奇心、自制心、楽観的なものの見方、誠実さといった気質
であり、知能検査で測定できる類いの「認知能力」とは異なる能力である。
「認知能力」は計算や読み書きができるといった今日の「社会的成功」の基礎となるもので、1993年にカーネギー財団が出版した「スタート地点」に原点を発している。読者の方も「生まれてから3年が大事」という言葉をどこかでいちどは耳にしたことがないだろうか。
生まれてから3年の間に学力を伸ばすための十分な刺激、家庭での言葉と数字による刺激が不足していることが、のちの学力不振につながるという考え方で、これまで広く支持されてきた知能至上主義である。
しかし、最近になって多くの専門家がこの知能至上主義に疑問を投げかけ始めた。彼らは、本当に大切なのは、生まれて3年の間に情報を詰め込むことではなく、上述した「非認知的スキル」「非認知能力」という性質ではないかと考え始めている。
具体的には、作業を粘り強くできるか、馴染みのない環境へ適応できるか、一時の快楽や楽しみを先送りして将来の見返りを優先させることができるかといった社会的能力が、高校卒業率とも強く関連しているという。(IQなどの認知的能力とは完全に別物)
また、こうした非認知能力は認知能力とは異なり、学校生活、社会生活、家族生活といった人生全般において価値のある能力だという。
なるほど成績の良い生徒があるとき突然不登校になってしまったり、優秀な大学を出て優良企業に就職した人が鬱になってしまったり、引きこもりになってしまったり、最悪なことには突然「キレて」他人を傷つけてしまったりという事件は枚挙に暇がない。
彼らはIQや認知能力が高かったかもしれないが、非認知能力を十分に発達させることができなかったのかもしれないという見方もできる。実は、IQが高いことは必ずしも社会的成功を保証するものではない。実際、IQが高い人で社会的に成功している人は14%しかない。
テストで高得点を取れる能力は、馴染みのない環境に放り出されたときにうまく立ち回っていける能力、異なるバックグラウンドの人たちともうまくやっていける能力、ストレスをうまく解消できる能力、問題に直面したときにうまく対応できる能力とは異なるものなのだ。
今後、世界はめまぐるしく移り変わり、日本もその影響からは逃れられない。自分とは異なる価値観・考え方・イデオロギーの人たちと接する機会も多くなるだろう。また、社会が不安定になり、解雇や人生の苦難に直面する機会も不可避となってくるはずだ。
そのとき、自暴自棄になることなく、争いを回避し、困難にくじけることなく淡々と対処し、自分にとって最善の選択をし、ストレスをうまくマネジメントし、自分の道を切り開いていく能力を備えていくことが、この21世紀で学歴より必要になってくるのかもしれない。
非認知能力について詳しく知りたい方はこちらの書籍がおススメです。