ミセスGのブログ

海外ドラマ&映画の感想、世の中のお話

田舎スリラー映画「胸騒ぎ」が胸騒ぎどころじゃなくてヤバい

Speak No Evil (2022)

2024年年末どす。

皆さんの2024年はいかほどでしたか。

私は2023年11月に突如降って降りた腰痛ヘルニアの痛みを手術にて除去した忘れられない年となりました。

読者の方に腰椎間板ヘルニアなど腰痛に悩まされている方は多いと思うので、今度詳述しようと考えておりまする。

さて、今年もホラー映画の紹介で幕を閉じたいと思います。

どうも最近のハリウッドは90年~00年代の名作のリメイクや続編の制作に傾倒していて、ヒット映画を出せないでいるように感じるのよね。

デューンだとかバービーだとかオッペンハイマーだとか(いずれも未鑑賞)、それなりにヒットはしているけれど、日米大興奮と日米号泣とまではいかない「まあまあ」作ばかり。

そんな中でホラー映画は好調。

スマイル」も大ヒットして続編が今年公開されたり、本作「胸騒ぎ」のリメイク「スピーク・ノー・イーヴィル」が公開されたり、2025年6月には待望の「28日後」「28週後」の続編「28年後」が公開されるという。しかも三部作らしく、一作目の半年後に二作目が公開されるとのこと。「28年後」の予告が公開されたが、テイラー・ホームズによるキップリングのポエム「ブーツ」のナレーションが怖すぎると評判に。クリスマスにはダン・オバノン監督による「バタリアン」の続編(4?5?)が公開予定で、原点に戻る作品になるだろうということで、第三次ホラーブームが来ていると勝手に解釈している。

期待に胸を膨らませたところで申し訳ないのだけれど、「胸騒ぎ」の感想よ!

正確にいうと本作はホラーというよりスリラーにあたる。

2022年のデンマークとオランダ合作で、脚本・監督共にクリスチャン・タフドラップという46歳という若さのデンマーク人。

リメイク版はジェームズ・マカヴォイ主演で2024年に公開された。

 

「胸騒ぎ」粗筋

休暇先のイタリアで知り合ったオランダ人夫妻の家、つまりオランダ家に招待されたデンマーク人夫妻と娘だが、オランダ人夫妻の狂気に追い詰められていく。

といった話で、田舎ホラーに通じるものもあるわね。

 

「胸騒ぎ」感想

実は最初にリメイクの「スピーク・ノー・イーヴィル」を観ていて結末もああなるのかと思っていたので、胸糞悪さに驚嘆の一作だった。いい意味で。

物語は、デンマーク人夫妻のビョルンルイーズが娘のアグネスを連れて休暇で訪れたイタリアのトスカーナ地方でオランダ人夫妻のパトリックカリンと出会う所から始まる。オランダ人夫妻にはアベルという男の子がいるが、アベルは言葉を発しない。

デンマーク家のルイーズとビョルン、善い人たち

オランダ家のパトリックとカリン

自宅に帰宅後、ビョルンとルイーズ夫妻の元にオランダ人夫妻から「うちに遊びに来ない?」と招待状が届く。ビョルン、ルイーズと娘のアグネスは意気揚々とオランダ人家族を訪ねるが、徐々にオランダ人夫妻の狂気に追い詰められていく。

という話なんだけど、映画の大部分はオランダ人夫妻の狂気がじりじりと増していくプロセスに時間を割いている。人付き合いにおける「あれ?」から始まる違和感が「え、ちょっと待って」に代わり、「いやいやいや、おかしいだろ」に代わっていく。そして気が付いた時には取り返しの付かない状況に追い込まれていく。んだけど、デンマーク家は声を上げることができない、抵抗できないの。善い人過ぎて。

このプロセスの描写が非常~~~~に上手いのね。「ファニーゲーム」のミヒャエル・ハネケ監督を想起させる。定点カメラに電球ライトや車灯が醸し出す危うげな雰囲気。でもこの二作には大きな違いがあって「ファニーゲーム」は自宅に変な若者二人が押しかけてきて生殺与奪権を握られる、つまり押しかけ殺人なんだけど、本作は自ら訪れたお宅で、口頭で脅されるわけでもなければ、武器でも脅されていない状況なのにも関わらず、最期まで意のままにされるという点でして。

パトリックの狂気は、最初はほんの小さな事柄から始まる。ルイーズはベジタリアンで、出会った先イタリアでその事は伝えてある筈なのに、自宅でルイーズに肉を食わせようとする。するとルイーズは「ナイス」なので断れずに「じゃあちょっとだけ」みたいな感じで口にしてしまう。

ベジタリアンのルイーズに肉を食わす、すこぶる不適切なパトリック

フット・イン・ザ・ドア戦略じゃないけれど、最初の無理難題を食わせたが最後、パトリックの言動はどんどんエスカレートしていく。妻のルイーズがシャワー中にも関わらず同じバスルーム内の洗面所に半裸で入ってきて歯磨きをして出ていったり。

ルイーズがシャワー中も勝手に入ってくるオランダ家のパトリック(「サイコ」を連想)

ビョルンとルイーズがメイクラブ中に廊下のすりガラスからパトリックがじーっと見ていたり。娘のアグネスが寝床にいないので探しに行ったところ、パトリックとカリン夫妻の自室のベッドで一緒に寝ていたり(しかもパトリックはパンツ一丁)。

さすがに娘の大事に関わることなので妻ルイーズが「不適切よ!」と批判すると、逆に「アグネスが夜泣いてたから私達の部屋に連れてきてあげたのよ。貴方がたはお宅の娘が夜中に泣いている時にどこで何をしていたの?寝てただけじゃない?」と逆に責められる始末。

礼儀正しく「善人」であるデンマーク夫妻は抗議はおろか、何も言えなくなってしまうのね。

デンマークとオランダという言語も文化も異なる二つの国の夫妻というのもポイントで。娘アグネスと息子アベルがチキン・ダンスをお披露目するも、アベルに向かって「下手くそ!やり直しだ!」と本気で恫喝するパトリックを前にしたデンマーク家。パトリックを諫めるどころか「もしかしたら言語障壁かもしれない」「国が違うので慣習が違うからかもしれない」と、「善人」デンマーク夫妻は思い込もうとしてしまうのです。

早朝、パトリック夫妻が起きる前に逃げ出した際の車中で、ぬいぐる症の娘アグネスが「ぬいぐるみのウサギが見当たらない、忘れてきたかもしれない」と泣き出すが、ビョルンは「善い」パパなので(冒頭でも娘のウサギのぬいぐるみを探すパトリックに「パパはヒーローだな」と褒められていたが、それも戦術)、大切なものを失ってアグネスに喪失感を自分で克服させるという選択をするのではなく、ぬいぐるみを取りに戻るという選択をしてしまう。何故なら「善い」パパだから!パトリックも子どものためにぬいぐるみを探し回るお父さんを「ヒーロー」だって言ってたし!

そう、結局デンマーク夫妻は最後まで礼儀正しく善き人であろうとするため、あのような結末を迎える。いみじくもデンマーク夫妻が「何故こんなことを?」とパトリックに尋ねたときのパトリックの「Because You Let Me」という一言に集約されている。

デンマーク夫妻には何度も逃れるチャンスがあった。パトリックとカリンは一度も武器で脅して軟禁したことはない。終盤の車中のシーンでは、パトリックが途中で車を止めて、エンジンをかけたまま、しかもイグニッションにキーが刺さったまま立ちションに行ってあげるというチャンスさえあげちゃう。娘のアグネスが襲われた時でさえ、パトリックは父親ビョルンに銃を突き付けていたわけでもない。しかしビョルンは娘があんな目に遭っても、ほんの二・三発殴られただけで簡単にあきらめてしまうのである。

本作を観て、観客としては「親の立場からしても考えられない事だ」と憤慨なさる方も多いかもしれない。

しかし、デンマークといえば世界でも有数の安全な国とされていて、それは我が国日本にも通じる部分がある。私たちはとみに文明化された、夜に一人で道を歩けるほど安全な社会に住んでいるという特権を得ている。同質社会で会う人々はみな「善人」で、マナーや秩序を守り、社交の場でも感じよく、決して声を荒げたり暴れたりなどしない。

我々の動物としての本能は、社交性や礼儀正しさで二重・三重に覆われてしまっている。そんな我々が暴力という野性本能丸出しの人間と会ってしまったら?果たして我々は「ノー」といえるだろうか。抵抗できるだろうか。それとも最後まで礼儀正しさを払拭できずに終わるだろうか。

日本人として近い例でいえば、電車内の痴漢だ。あなたは痴漢に遭った時、声を上げているだろうか?それとも「礼儀正しさ」「思い違いかもしれない」という逃避思考が邪魔して、スピーク・ノー・イーヴィルでいるだろうか?

尼崎事件や北九州一家殺人事件のような事件は何故起こるのか、本作にもその人間心理のヒントが隠れているのではないだろうか。

なお、原題の「Speak No Evil」はもともと孔子の論語の教え「非礼を見ず、非礼を言わず、非礼を聞かず」に由来したもので、日本では自分に都合の悪い事や人の悪口を言わないという意味であるが、海外では利己心や臆病心から悪いことを黙認するという意味があり、本作ではその意味が適用されているのだろう。

美しいオランダ南部の街並みや平原、採石場、デンマークの冷たい海といった平時の景観がなんとなく青白っぽくて、物騒な場面では暖かみのあるライトを効果的に使用していて、その対比がタイトルの「胸騒ぎ」効果を倍増していた。胸糞悪いかもしれないけど、スリラー好きにはお勧めです。

オランダ家の美しい街並み

オランダ家