ミセスGのブログ

海外ドラマ&映画の感想をパンピー視点で書いてる。

日本人が自分を見失う原因の一つは、多すぎるノイズ

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日本に帰国して約1か月半、慣れてしまう前に書き留めておく。

海外長期滞在者が日本に帰ってきて気が付かされることはたくさんあるのだが、いま強く感じていることは、日本ではノイズが多すぎるということだ。

 

同じ情報を執拗に垂れ流す日本のTVメディア

私は一切テレビを見ないので、テレビがなくても困らない。必要な情報はインターネットで手に入れることができるし、海外ドラマや映画も動画配信サイトで簡単に見ることができる。デバイスはパソコンとスマホがあれば問題ない。テレビを購入する金も浮くので、一石二鳥だ。

しかしシニア世代の両親と同居しているため、いやでもテレビの映像が目に入ってくる。シニア世代は若い世代ほどインターネットに精通していない。私の母に至ってはインターネットどころかスマホさえ使うことができない。

両親は朝起きると自然にテレビをつける。平日は仕事をしているのでテレビを見ることはないが、帰宅すれば電気をつける感覚でテレビをつける。つまり、家にいる間は常時テレビがついているのがふつうだ。

それでも私はテレビを見ることがないのだが、朝のワイドショー番組で扱っていたコンテンツが昼のワイドショー番組、夕方のニュース番組、9時以降の夜のニュース番組にも流れていることに気づく。

あまりのしつこさに小学生の娘もすぐに気がつき、「これさっきやったよぉ、なんで同じことまたやってる?」と半ば嫌そうに言った。

地震や台風情報など必須の有益なニュース番組は別にして、芸能人のニュース、企業・学校・スポーツ界等の組織絡みのニュースが延々と朝から晩まで垂れ流されているのである。

ひどいことに1日だけでは飽き足らず、何日も何週間も1つの話題を繰り返し取り上げ、執拗に流す。さらに多くの番組では、専門家でもないコメンテーターや芸能人を出演させ、的外れなコメントや当たり障りのない意見を述べる。

むろん、中国が尖閣の領海に侵入しているだとか、2011年頃から中国韓国の日本貶めに憤った日本人たちの大規模なデモが発生しているとか、フジテレビへの抗議デモが発生しているとか、安倍総理がインドで大歓迎受けてるだとか、大事な情報は報道していない。

アメリカでもニュース番組は多くあるが、これほど執拗に同じ内容を繰り返し繰り返し放送することはない。

若い世代はすでに気づきつつあるが、テレビというものは見れば見るほど馬鹿になる。

その理由は、第一にテレビは一方通行であることが挙げられる。第二にテレビから入る情報は、より多くの人が分かるように知的能力が低い人にレベルを合わせている。第三に、テレビから流れる情報は、その多くが専門家によるものではなく事情を知らない芸能人やどこの馬の骨かもわからないコメンテーターが発信するものが殆どであるということが挙げられる。

このような低質で一方通行の情報が延々と入ってきても、人間は頭が良くなるわけでもないし、博識になるわけでもない。

アメリカのテレビはヒストリー・チャンネルは24時間延々と歴史を流していたり、動物チャンネルでは延々と動物について流している。しかし日本のテレビ番組はたいてい教育程度の低い人間たちが中心になって番組を展開しているし、扱うテーマは稚拙なものが多く、断片的だ。結果的に知識や身となる思考プロセスを形成しない断片的な情報は、容易に垂れ流されて容易に脳内から流出していく。

 

テレビだけではないノイズの多さ

垂れ流される情報メディアはテレビだけではない。現代人のインフラに欠かすことができなくなったインターネットも、スマホを介してノイズを送ってくる。

インターネットの情報は膨大であり、テレビなど他のメディアを凌駕しているが、インターネットが万能かというともちろんそうではない。インターネットの情報も玉石混交だ。

スマホのホーム画面にあるスマートニュースや、twitter、Facebook、Instagramなど、毎日分単位で情報がひっきりなしに流れてくる。

実はこれら膨大な情報の多くは、私たちにとって直接関係ないものがほとんだ。日本のどこかで動物が虐待を受けて炎上している、スポーツ界でパワハラ、モラハラが発生して炎上している等々。追ってインターネットの大手メディアがこれらを持ち上げ、テレビでも連日取り上げられる。(今日に限っていえば、貴乃花親方の退職届。今後数日にわたって、このノイズが流れ続けるだろう。)

次から次へと新しいニュースが飛び込んできては消えていく。モラハラ、パワハラ、虐め、子どもへの虐待など、社会問題として表面化させるという視点から言えば社会的意義はあるのだろうが、取り上げて議論しているだけではこの鈍重な社会が動くことはない。

時折このブログでこうした世の中の問題について言及することがあるのだが、その際には注意喚起や問題提起、具体的な防止策を書くように心がけている。巷のトレンド記事のように事件の経緯や詳細を書くだけでは、単なるノイズと化してしまうからだ。

ノイズはインターネットやテレビなどのメディアからだけではない。日本には所かしこにノイズが溢れている。電柱、コンビニの窓、お店、そこかしこに手書きの文字が表示されており、看板が街路を埋めている。最近、某コンビニでは、一生に数回遭遇するかしないかもしれない非常識な輩のために「おでんを手で直接取らないように」という注意書きまで貼っているそうだ。

バスに乗れば、広告だけではなく「バスが停まるまで立たないで下さい」などの注意書きに溢れ、電車に乗れば「エスカレーターにお乗りの際は…」「足元にご注意ください」「白線の内側にお立ち下さい」「電車が来ます」「この電車は~」というアナウンスが延々と続く。電車内の携帯電話の使用がNGなのに、過剰なアナウンスは日本語と英語(と中国語?)で垂れ流される。

車も例外ではない。交通サインだけではなく「スピード落とせ」「この先事故多発エリア」「シートベルト着用」などなど。まるで日本人が何もわからない子どものように、ひとつひとつ注意する。

また、情報を見分ける必要があるため、注意看板に目を取られて、目的地の看板という本当に必要な情報を見失う可能性も高くなる。

トイレに入れば「汚物は三角箱に」「一歩前に出て」「いつもきれいにお使い頂きありがとうございます」「トイレットペーパー以外は流さないで下さい」「忘れ物にご注意下さい」だけでなく、音姫がワーワー騒ぎ出して止まらない。うるさいから止めたいのにボタンが見当たらない。

これに慣れてくるとどうなるのか?考えることを止め、主体性を失い、個人は基準から外れた人々を排除しようとする。これが同質性の形成に一役かっている。

バスが停まる前に立ち上がって転んだ人に注がれる視線は冷たく、「アナウンスがあるにも関わらず転んだのだから自業自得、何を考えているんだ」という思いを抱くようになる。助けようとすることさえ躊躇するだろう。

日本人は世界でも稀にみるマナーの良さを備えた民族なので、本来ならこうした注意書きは不要なはずだ。事故が起きた時に企業が免責を求めるために致し方ないという意見もあるだろうが、それならば訴訟大国のアメリカは注意書きで溢れているはずだが、注意書きはほとんどない。せいぜい「禁煙」「ペット入店禁止」「当店はいかなるお客の入店も拒否する権利を有しています」くらいだ。

アメリカやイギリスで電車に乗ったのはずいぶん前だが、日本のようなアナウンスはほとんどない。その場合はどうなるのか?たとえば子どもがプラットフォームの線路側に近付きすぎれば、親や他人が注意する。子どもはそれを学び、主体的に自分から注意するようになる。

 

スマホからスマートニュースを消した

アメリカにいるときは日本の情報に飢えていたため、スマートニュースというアプリをスマホに入れていた。

ところが日本にくれば、日本の情報は自然と入ってくる。いつのまにかスマホでニュースのチェックをすることがルーチン化してしまい、気がついたら毎日99%は自分に関係ないニュースを1時間チェックしていた。

その結果、不要な情報が脳内になだれ込み、自分が考えなければならないことを考える余裕がなくなった。つまり思考停止に陥ったのだ。多量のノイズに自分らしさやを見失いそううになった私は、スマートニュースのアプリをスマホから消した。情報が必要であれば、自分からググればいい。取捨選択してノイズをミニマムにしたら、もとどおり快適だ。ノイズを遮断し続けさえすれば、真理を見失わずに済むだろう。

本当か?と疑うのであれば、多くの物が乱雑に散らばって片付いていない部屋と、ミニマムな物がきちんと整理整頓されて片付いた部屋を比較してみると良い。散らかった部屋はノイズに溢れた脳そのものだ。ノイズの少ない部屋(脳)であれば、重要なものがどこにあるかがすぐ分かるし、すぐに引き出せる。また、不要なものを判別しやすい。

ちなみにアップルやグーグルなどアメリカの大企業のCEOは、毎朝瞑想するのを習慣にしている人が多いそうだ。瞑想は、目を閉じて10~15分ほど頭の中から雑念を消すというシンプルなものだが、ストレスを軽減し、集中力を向上させてくれるという。つまり、彼らは毎日頭からノイズを消す方法を実践しているということだ。