先日見た、砂漠の人間狩りホラー映画「ハッピー・ハンティング」並びで、「虹蛇と眠る女」を視聴しました。
虹蛇と眠る女
原題は「Strangerland(見知らぬ土地)」、邦題は「虹蛇と眠る女」です。
虹蛇と眠る女って何よ?と思いましたが、映画を見たあとの不可解さを解消したくてググったところ、この映画を解説をしているブログに出会い、邦題の意味を理解しました。
虹蛇の説明はこちらが分かりやすい。
虹蛇とは、アボリジニ各部族が崇拝する蛇の精霊で、形や色、大きさは様々だが、肌には自分を崇拝するアボリジニの各部族を示す色とりどりの模様があったといわれている。
虹蛇は泉や湖の底に棲み、生物にとって最も大切な水や雨を自由に操る。そのため、虹蛇は生命を司る精霊とも呼ばれ、すべての生物は虹蛇から生まれたとされた。
キム・ファラント監督は、本作の製作に13年間費やしたそうです(最後の1~2年以外はパートタイムで製作)。
主演はニコール・キッドマン。夫役に「侍女の物語」のジョセフ・ファインズです。
ハッピー・ハンティングで主演のウォーレンを演じているオーストラリア男優が、学校の先生役でチョイ役で出演しています。
舞台は、オーストラリアの砂漠地帯にある小さな町ナスガリ。オーストラリアのニューサウスウェールズのカノーウインドラ(歴史的な町)などで撮影されました。町の商店街の風景は、そのままカノ―ウィンドラの町が使われています。
2015年の作品です。
「虹蛇と眠る女」あらすじ
オーストラリアの砂漠地帯にある小さな町に住む4人の家族。
家族は、何らかの理由でこの町に引っ越してきました。
父マシュー(ジョセフ・ファインズ)と母キャサリン(ニコール・キッドマン)は別々の寝室で眠り、15歳の長女リリーは性的に奔放で両親を苛立たせます。弟のトミー(12歳くらい)は夜中に歩いて外に出て行く夢遊病の気があります。
そんなある夜、子どもたち二人が姿を消します。
「虹蛇と眠る女」感想
日本での評価はよくわかりませんが、アメリカでの評価は若干酷評が多いように思います。その原因は明らかで、すっきりと結論が出る映画ではないからです。結論もなければ、回答もなく、メッセージ性もありません。起承転結のある映画とは違い、起承だけの映画なので、転結は自分たちで考えましょう。
監督も明らかにしているように、人生というのはそういうものなので、映画のストーリーのあらゆる可能性をオープンのままにしたようです。
アンサーのない映画ということで批判しているのであれば、本作は単にその視聴者の好みの映画ではなかっただけと言えます。子どもたちが姿を消すということで、クライムや謎解きミステリーを想像してしまった人も肩透かしを食らって、酷評したくなるかもしれません。まあ、そういう方は、子どもが実は町人に殺されててバッドエンドとか、連続殺人鬼がいたとか、子どもを取り返してハッピーエンドとか、そういう映画を見ればいい話です。
私はだいぶ惹きこまれましたね。話がスローペースすぎるという批評もありましたが、私はスローとは全然感じませんでしたし、どのシーンも目を離せなかったです。
酷評している人たちの多くは、ニコール・キッドマンの演技は良かったとも言っていますが、私は今回はニコール・キッドマンは少しやりすぎかなという感じを受けました。ニコール・キッドマンが脚本にほれ込んだという話ですので、肩の力が入り過ぎているシーンが時折ありました。
私が良かったと思ったのは、まずは娘リリーを演じたマディソン・ブラウン。
非常に可愛いです。現在20歳のマディソン・ブラウン。本作のときは18歳ですが、15歳の少女リリーを演じています。男性をメロメロにする魅力を持っています。
そしてもう一人、映画の全編を通して出演している刑事のレイ(ヒューゴ・ウィーヴィング)が素晴らしかった。マトリックスのスミスさんですよね?同じ人とは思えんな・・・マトリックスではあんなにキモいのに、20年後の今のヒューゴさんは渋い!!ちょっと惚れそうになったわ。このくらいのオジサンなら全然いける。
この刑事さんがですね、落ち着いた大人の男性で、すごく素敵なの。この人を見るだけでも価値がある作品だったわ。
家族の問題がだんだんと浮き彫りになってくる過程もよかったし、夫婦間に流れる冷たいすきま風も「夫婦あるある」を感じたし、家族がそれぞれ問題を抱えていることも分かりやすく描かれています。
ニンフォマニアック的な15歳のリリーと、同じ性癖をもつ母キャサリン。キャサリンがやけに地味で古臭い服装をしているのも、内に抱える強い欲情を隠すただったのかもしれないと今なら思う。子どもが行方不明という重いストレスを抱えたキャサリンは、極限の精神状態に陥り、セックスによってストレスを乗り越えようとします。最終的に一糸まとわぬ姿で現れたのも、その一つなのだと理解しました。
リリーの日記は、神経言語プログラミングを連想させます。リリーの言動や日記から、レイやキャサリンは夫による性的虐待を疑います。また、トミーの夢遊病も、なんらかの精神的ストレスが原因のひとつかもしれないと考えるのが普通です。2人が何らかの精神的なストレスを感じているのは明らかですが、本作では答えは出てこないので、判断は観客に委ねられています。虐待したのは夫かもしれないし、キャサリンだったかもしれない。あるいはほかの人物かもしれない。
リリーの日記が見たくなってきますね。
Touch in the dark.
No-one can see.
Touch in the dark.
You... touch me.
Only light and dark.
Me.
果たしてリリーは単なる家出なのか?リリーは無事なのか?リリーを乗せて行った人物は誰なのか?リリーは虐待されていたのか?トミーは?リリーは砂漠のどこかで虹蛇に食われてしまったのか?「お前の娘は淫乱だ」と電話をかけてきた人物は誰なのか?リリーの消失に関係があるのか?
すべてが観客に委ねられています。
アボリジニのお婆さんが言っていた虹蛇の話は、この方のブログを読むとよくわかると思います➡【虹蛇と眠る女】神話から生まれた不可解な心理サスペンス
オーストラリアの先住民族(1)アボリジニは、「夢幻時(ドリームタイム)」という世界観を持っている。
その考え方によると、世界は目覚めているときと眠っているときの二つに分けることができ、眠っているときは夢の世界で暮らし、その生活こそが真実で、目覚めている時の生活は幻でしかない。
そういえば、本作では太陽が沈むシーンで、地平線を境にスクリーンが上下真っ二つに分かれているシーンが何度か映し出されていました。これはアボリジニのドリームタイムを表しているのではないでしょうか。また、砂漠地帯の丘陵の谷が、ちょうど蛇のような形状をしています。
月の明るい夜に出かけてしまったリリーとトミーは、虹蛇と月男の会話を聞いてしまい、虹蛇の怒りを買って虹蛇に飲み込まれたのでしょうか。そしてリリーは今、虹蛇と眠っているのかもしれません。
最後はリリーのナレーションで映画は幕を閉じますが、この文章からあなたは何を思いましたか?
There is a stillness in the air...
and I am in it.
There are no sounds.
No whispers.
No shadows.
No darkness.
And just for a moment...
there is no you.
No me.
And I'm not lost.
おそらく、オーストラリアの歴史背景とアボリジニの神話まで想像を働かせることができた人は殆どいないでしょうが、これを念頭に入れた上で映画を見ていたら、本作への理解が深まったと思います。
久しぶりに色々と考えた映画でした。監督は、本作を見た人にいろいろ考えてもらうことが一番の目的と言っていたので、私は監督の目的どおりに動きました。
虹蛇と眠る女はAmazonで視聴できます。
評価:65点