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【バード・ボックス】Netflix映画のネタバレ感想:目を開けたら終わり!サンドラブロック主演サバイバルホラー

バード・ボックスnetflix映画の感想

バード・ボックス

祝・インターネッツ開通でございやす。

7月に日本に帰国してから12月までインターネッツの回線なしにインターネッツを使用していたミラクルGでございやす。

このほどやっとインターネッツの回線が開通しましたので、2週間ほどサボっていたブログを軌道に戻そうと張り切っております。

今日はNetflixオリジナルのディストピア映画【バード・ボックス】の感想でございます。

なんと劇場映画ではないのにサンドラ・ブロック主演。ソンドラ・ロック*じゃないですよ。サンドラ・ブロックのほうですよ。*ソンドラ・ロック・・・イーストウッド映画に多数出演、交際もしていた女優

内容はスリラー/ホラーで、今流行りの「~したら終わり」シリーズ。ここ最近ではこんなレパートリーがあるんだけど、まだまだ作れそうね。

  • ドント・ブリーズ(息をしたら終わり)感想ここ
  • ア・クワイエット・プレイス(音を出したら終わり)感想ここ
  • ドント・ヘルプ(助けたら終わり)
  • ライト・オフ(電気を消したら終わり)感想ここ

ドント・スニーズ(クシャミをしたら終わり)とかドント・スピーク(喋ったら終わり)とか、ドント・ファート(屁をこいたら終わり)とか、ドント・ラブ(愛したら終わり)とか、ドント・ルック(見たら終わり、あ、本作とかぶってるか)とか、どんどん作りますよ。私以外の誰かが。

 

【バード・ボックス】作品情報

原題:Bird Box

公開年:2018年

監督:スサンネ・ビア

出演:サンドラ・ブロック、ジョン・マルコビッチ、サラ・ポールソン、トレヴァンテ・ローズ、トム・ホランダー、ダニエル・マクドナルド

上映時間:124分

ジョシュ・マラーマンの原作Bird Boxをもとに製作されています。2018年に公開された「ア・クワイエット・プレイス」のパクリだと批評する人もいるようですが、原作はBird Boxのほうが先なのでまったくパクリではありません

観た感じではクワイエット・プレイスというよりはM・ナイト・シャマラン監督の「ザ・ハプニング」に酷似しているので、「ザ・ハプニング2」みたいな感じ。

目を開けない設定は「ブラインドネス」、家という密室の中に色々なタイプの人間が共同生活を強いられる設定は「ミスト」を連想させました。

まぁ別に誰が何をパクッたかというわけではなく、スリラー映画の題材としてよくあるパターンなんですよね。

 

【バード・ボックス】あらすじ

ロシアやヨーロッパで集団自殺の現象が相次ぐ。

妊娠中のアーティストであるマロリー(サンドラ・ブロック)は、妹のジェシカとともに病院の診察を受け、家路につくところだった。

集団自殺の現象はアメリカでも発生し始め、街はカオスに。人々は自ら車の前に足を踏み出したり、燃え盛る車に入って行ったり、頭をガラスにぶつけ始めたりして自殺し始める。

マロリーは他の数名の生存者とともに、なんとか近くの家に避難するが…

 

【バード・ボックス】感想

「ザ・ハプニング」では見えない力が風で運ばれて人々を自殺に追い込んでいたが、本作も同様に見えない何かによって自殺に駆られてしまうという設定である。

屋外で目を開いていると何かが見えるらしく、その後自分の命を絶つことになる。要は目を開けたら終わりなので、登場人物たちは屋外に出る時は必ず目隠しをしなければならない。

「ザ・ハプニング」が超常現象っぽいのに対して、本作の「それ」は目に見えそうな、形がありそうな「何か」で、明らかに意思を持った何かであるように感じた。

「それ」の特徴をまとめてみると

  • 屋内には入らない
  • ただし、ガラス越しには作用する
  • ので、窓ガラスのブラインドを全部下げるか、新聞紙などで窓を全部覆う
  • 風圧があるらしく、木の葉や木を動かすことができる
  • 車の接触センサーに反応する
  • 過去の友人知人の声を使って頭に話しかけることができる
  • オリンピア(ダニエル・マクドナルド)の目にはとても美しく見える(劇中の台詞より)
  • 自殺しない人間も少数いるが、彼らは生存者たちを殺そうとするか、親玉エンティティを無理やり見せようとする

こんな感じの何かである。

主役のマロリーは屋外ではずっと目隠しをしているので、マロリーの視点は私たちの視点とまったく同じ。つまり私たちはマロリーの視点を通して疑似体験をしている。

最後まで目隠しをしているので「それ」が何なのか回答は得られない。それが何なのかハッキリさせているのが「ア・クワイエット・プレイス」というところだが、本作は見えない何かを最後まで見せないことで恐怖を持続させようとしているのだろう。

ジョーズで証明されているように、見えない恐怖は見える恐怖に勝るのだ。「ア・クワイエット・プレイス」でもクリーチャーが登場した瞬間から恐怖心は減少していく。

とはいえ本作では恐怖というより、この「何か」が何なのかという好奇心の方が勝ってしまった。思うにこの「何か」は人間の想像をはるかに超えた何かであり、おそらく異次元からのエンティティという結論に帰着する。

このエンティティは人間の脳が対処できない、プロセスできない姿形をしており、見てしまうと脳がショートしてしまうのだろう。そのため、キャパオーバーとなった脳は自らシャットダウンすることになる(=命を絶つ)というわけだ。(ただし、実際の姿形は、ゲイリーの絵によって説明されている)

一部の人間はこの「何か」の影響を全く受けず、屋外で普通に過ごせるのだが、自分を殺す代わりに他者を殺そうとする。サンドラ・ブロックたち正気の生存者は、エンティティだけではなく、危険な生存者たちの手からもサバイバルを強いられるわけだ。

エンティティを見ても自殺しない一部の連中は、精神病患者という説明もあったが、もともと精神に疾患がある者のようだ。

つまり、ゲイリーが言っていたように、心に闇を持った者は自殺をしない。あとはおそらく他者への共感に欠如した闇人つまり「狂気の」連中が、自殺をせずん親玉エンティティの下僕となる。

狂気の連中は脳の回路がすでにショートしているので、エンティティを見ても自分をシャットダウンすることはない。

チャーリーがご丁寧に「悪魔か悪霊かが人間の恐怖や悲しみを利用して人類を淘汰しようとしている」というようなことを説明していたし、狂気の連中の一人ゲイリーも「心に闇を抱えている人は目隠しをしなくても大丈夫」と説明していたように、エンティティの正体は異次元に存在する悪魔、悪霊というのが人間が考えうるもっとも近い正体といっていいだろう。

タイトルのバード・ボックスは生存者たちが共同生活をしていた家そのものを指している。そこには様々なバックグラウンド、人種、政治思考、性的指向の人たちが存在している、つまり現代社会の縮図だ。

ある状況に瀕した時、人間がどのような対応をするのか。私たちは、あたかもバード・ボックスの鳥たちを観察しているかのように登場人物を観察することができる。

マロリーとオリンピアという二人の妊婦の対比もおもしろい。マロリーは気難しく、頑固で、嫌な父親に育てられ、幼少期から強くならざるを得なかった。オリンピアは優しい両親に大事に育てられ、心優しい女性になり、夫の庇護の下で暮らし、自分を守る必要がない生活をしてきた。

オリンピアの優しい心は、オリンピアの命を奪い、さらに仲間のほとんどを死に至らしめてしまう。ジョン・マルコビッチ演じるダグラスの「世界の終わりに存在する人間は2種類ークソったれと死者だけだ」という言葉は辛辣ながらも的を得ている。我が家で言えば、クソッたれが旦那で、死者は私だ。娘は頼みますよ、クソッたれ。

マロリーが子どもたち二人のサバイバルを第一に考え、二人に厳しく当たる一方で、トム(トレヴァンテ・ローズ)は子どもたちに希望を持たせる話をする。おそらく決して味わえない甘美な話を無責任に子どもたちにするトムに怒りを露にするマロリーだが、マロリーにとっては愛情を露にすることは子どもたちを危険にさらすことなのだ。

いくらなんでも名前ぐらいは付けてもいいような気がするけど。名前を付けないことで子どもへの愛を箱の中に閉じこめようとするのは理解できる。マロリーは子どもにソフトに当たることを弱さと捉えており、それが子どもにとって命とりになると信じている。そのため、子どもにもママとは呼ばせず、マロリーと呼ばせているわけです。ママと言えば、そこに甘えと依存心が生まれ、隙が生まれてしまう。また、ママを助けようとしてしまう。ママを助けようとして子どもが死にことはマロリーが例え鬼になっても避けなければならないことなのだ。

他人を思いやることができる愛情深くて心優しいオリンピアは、たとえあの場面を生き延びたとしても、やがては自分の子を危険に晒し、彼女の子どもも命を落としていたに違いない。

対照的に、他人と距離を保ち、他人を信じず、頑固で我が道を行くタイプのマロリーは、子どもを厳しく育てている。辛く当たり過ぎることもあるが、子どもの命を何よりも優先し、おかげで子どもたちは助かったわけだ。

激流を下る折り、マロリーは2人の子のうち、どちらかに外を見るように伝える。なぜなら誰かが見なければ、激流に飲まれるか、岩にぶつかるかして、3人が助かる可能性は低いからだ。自分はオールを漕がねばならないので、外を観る役目は男の子か女の子かのどちらかということになる。

マロリーは、事前にこれを考えて二人のこどもに伝える。しかし、そのときには誰が見る役目を担うかは言わない。そのときになったら伝えると言うだけだ。現実主義のマロリーは、このとき自分の子ではない女の子(オリンピアの娘)に見させるつもりでいた。

しかし実際に激流を下る時になって、マロリーはどちらも選べない自分に気づかされる。マロリーの愛は自分が予想していたより深く、女の子を選ぶことは3人が死ぬかもしれない可能性よりも酷なことだったのである。

もともと母になるつもりはなく、母性もなかったマロリーのこの変化はカタルシスを感じる。人の愛情は測れないものである。

マロリーは、小鳥を小さな箱に入れて大事に運んでいたように、自分の愛情を箱に詰めていたのかもしれない。最後、小鳥を解放したように、安住の地で自分の子どもへの愛情をやっと解放することができたというわけだ。

エンディングで、唯一の救済が盲学校というのは、当然といえば当然なのだが、民族紛争が活発になり、世界のあちこちで人種の対立が激化している現代を鑑みると、なかなか皮肉の利いたエンディングではないだろうか。