ミセスGのブログ

海外ドラマ&映画の感想、世の中のお話

久しぶりに日本に帰国してギョッとする、日本の非常識

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日本に帰省中のGです。

幸い日本には2か月弱いられるので、久しぶりの日本をエンジョイしている。

日本はどこ行っても安全だし、クリーンだし、緑が豊富だし、何より食べ物が美味しい。そして日本語が通じる。

この時期は、暑いけど。

しかーし!

久しぶりに日本に帰ってくると、ギョッとすることがいくつかある。

時間が経てば慣れるのかもしれないが、在米7年(米英留学入れて9年)となってくると居住国のライフスタイルに慣れてしまうため、久しぶりに日本に帰国するとギョッとなることがたまにある。

どんなことか。

「太った?」

今回は体重増減ないまま帰国したんで、何も言われなかったが、一度5kgくらい肉をつけて帰ったとき、知り合いや親戚から「太った?」の嵐だった。

帰国時は親戚回りをしたり、親の知り合いに会う機会が多くなる。会う人会う人に言われ、「うるさい!わかっとるわ!」と非常に気分を害した

体型だけでなく、「老けた?」なんかも平気で言う人がいるようだ。

もともと日本では「痩せた?」「太った?」と人に言っても失礼に当たらないという風潮がある。しかし、これだけ親切でマナーが良い日本人が、本人を目にして本人の体型や状態を平然と口に出すことを失礼と思わない点がどうしても解せない。

他人の外見に口を出すのは明らかに失礼だ。家に帰っていくらでも家族に「Gさん、かなり太っちゃってたわよ~フフフ」って言えばいいのだ。

私の友人は皆優しいので、私がいくら太っても「太った?」とは言わない。

逆に海外では「変わらないね」が最高の褒め言葉になるという。私はこちらに納得する。明らかに相手が太ったとしても、何も言わないのは、優しさだ。

 

コンビニにあるエロ雑誌

ちょっと前に、日本では公共の場に性的なコンテンツが堂々と表示されていることがネットで問題になっていた。

電車の吊り広告、新聞の広告、コンビニに置いてある雑誌のエロ表紙…

これは、どうにかしてもらいたい。

日本にずっといればさほど気にならなかったが、日本に帰る度にギョッとする。

なぜなら、アメリカでは公共の場で性的なコンテンツを見かけることは皆無だ。まして小さい子供がいるとなると、ギョッどころかギョギョギョである。

先日セブンイレブンのATMにお金を下ろしに行ったとき、私の後ろを歩く娘がジーッと何かを見ていた。彼女の視線の先は、エロ表紙だった。それも彼女の視線と同じ高さにある。そして、ATMの隣に位置していた。

私は彼女の目を覆い、なんたることか!と思わずにはいられなかった。

エロと暴力は、子供に見せてはならない。

 

喫煙の多さ

先日、お好み焼きやに行って、久しぶりに嗅いだニオイ。それはタバコだった。タバコのニオイを嗅いだのなんて、前回(1年半以上前)に日本に来た時きりだ。それぐらいアメリカでタバコのニオイを嗅ぐ機会はない。国土が狭いという物理的理由もあるにせよ、見かける喫煙者の数が圧倒的に違う。

最近はようやく禁煙のトレンドが日本にも広まって、コーヒー店を中心に禁煙の飲食店も増えてきているが、分煙のみを導入している飲食店も多く、まだまだ完全禁煙への道は遠いように思う。

子供がいると喫煙はよけいに気になってしまう。

アメリカ生活が良いことの一つは、間違いなくタバコフリーの環境に身を置けるということだ。

 

プライバシーの意識の低さ

日本で感じるストレスの一つでもあるのだが、プライバシーの意識は改善の余地が大いにある。

先日、とある集まりに行ったときのことである。

旦那に日本に無事着いたことを知らせていなかったことを周りに指摘され、せっつかれたので、旦那に電話した。

席を立ち、娘を連れて、場所を移動した。

ところが、一人がついてきて、私と旦那の会話を聞いている。無事を知らせるだけの会話なので、5分くらいで切ったのだが、ずっとそこにいて聞いていた。

電話のために私が席を立ったのは、プライバシーが欲しいからだ。旦那との会話はプライベートなことであり、他の人に聞かせるものではない。

しかしそんなことはお構いなく、同席しようとする人が思いのほか多い。もしかしたら、私の英語を聞いてみたかったのかもしれない。小さいバイリンガルの子が英語を話すのを聞いてみたかったのかもしれない。単なる好奇心なのかもしれない。

だが、どんな事情があれ、席を立ったことによって私はプライバシーを守ろうとしているのであり、それを想像できない意識の低さは、私にとって受け入れられないものである。

日本のプライバシーの意識の低さは、家の構造にもみられるし、オフィスでも見られる。

アメリカのオフィスはマネージャー以上はドアのついた個室が与えらえ、平社員であってもキュービクルというドアのない三面を囲まれたワークスペースが与えられるのが普通だ。一方、日本は横並び、役職に就いているものでも、他の社員と同じスペースにいて、パーソナルゾーンが少し広いだけだ。

物理的に狭いという理由も大きいだろう。しかし、各デスクにパーテーションを用いることは簡単にできるし、横並びだとしてもパーテーションがあればそこに一定のプライバシーが生まれる。

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波風を立てにくい風潮

なにか問題があるときの祖母の口癖は「穏便に、穏便に」だった。長男の嫁と暮らしていることもあって、いろいろとストレスも溜まっていただろう。血のつながらない他人と暮らすのは、ストレスが溜まることだ。もちろん、長男の嫁さんも同じように感じているだろう。

祖母は「穏便に」と言う代わりに、娘や孫娘に愚痴を言うことで、ストレスを解消していた。

若い私は「ふ~ん、そんなもんか。」なんて思っていたが、今はそれが正しいのかどうか自信がない。

なにせ、愚痴を聞かされる立場の者としては、愚痴に嫌気がさし、「本人に直接言えよ」状態になるからだ。

本人には知らせないので、状況は全く変わらない。悪化はしないが、改善もしないのである。

実はアメリカの我が家には2か月ほど前からワケあって友人(アメリカ人男性)が居候している。仲の良い友人だが、私と旦那の生活様式と相容れないこともあって、やはりある程度のストレスはある。

その時、どうするかと言うと、旦那も私も直接本人に言うのだ。ときには声を荒げることもある。

その結果、改善することもあれば、まだそのままのこともあるのだが(その時はまた言う)、当人同士は鬱積したものがなくなるのだ。

個人的にはこの方が精神的に健全だと思うし、人間関係も良くなるように思う。

 

細かくて無意味な決まりごとに固執

日本のお店でモノを買うと、商品は紙袋か丈夫なプラ製の袋に包まれる。店員は、紙袋なら上部の真ん中をテープで留める。プラ製の袋ならハンドル部の穴の底辺部分をテープで留める。

私は、プラ袋のハンドル部にテープを貼られるのが大嫌いだ。まず第一に、家に帰って商品を取り出す際、このテープが非常に取りにくいのだ。そして、力任せにグイーッと引っ張ると、プラ袋が伸びてしまうがテープはそのまま切れず、というフラストレーションがたまる状態になる。

プラ袋は再利用することが多いのだが、この状態になると再利用が難しくなる。

そこで一度、テープを貼らないように頼んだことがあった。

買ったのは書籍か洋服かお菓子か、高くないものだった。

店員がテープを貼ろうとしたので

「すいません、そのテープ貼らないでいいです。」とお願いしたところ

「えっ、あっ、ごめんなさい、ちょっとテープは貼らないと…」と言われた。

「そうなんですか?」と理由を聞きたい思いで確認すると

「えー、はい、そうですね、テープは貼らないとダメなんです…」と言う。

商品をもらったら自分で剥がせばいいと思ったので、突っ込みはしなかったのだが、どうしても腑に落ちない。

テープを貼る理由としては、①中が見えないように配慮、②万引き防止、③店で購入したという証明、の3つが考えられる。

しかし、①は購入者側の希望なので、本人が中が見えても構わないなら、テープは貼らなくて良いはずだ。

②の万引き防止というなら、テープを貼っても、すぐに購入者が外してしまえば元の木阿弥ではないか。あまり意味があると思えない。

そして②の店で購入した証明というのなら、返品交換に領収書が必須な以上、そんな証明は不要なはずだ。まさか「領収書がなくても、テープが貼ってあるから返品承ります」ということにはなるまい。

テープを貼らないと、何なのか?

上司に怒られるのか?

テープを貼るという規則なのか?そうだとしたら、その規則の根拠は何なのか?根拠がないならその規則は必要ないはずだ。

購入者が「つけないで」と言っているのに、説得できるだけの根拠がないままテープをつけなければならないという店員に、どうしても納得がいかないままだ。

 

標準外・規定外のことにフレキシブルに対応できない

ピザにピーマンを乗せられない日本

以前、日本で外国人の友人とレストランに行ったときのことだ。友人はピザにピーマンを乗せてほしかったので、その旨ウェイターにお願いした。ウェイターは「しばらくお待ちください」といい、厨房に消えて行った。程なくして戻ってきたウェイターは、ピザにピーマンを乗せることはできないと言った。

私と友人は顔を見合わせた。「他のメニューにはピーマンが入っているものもあるのだから、厨房にピーマンはあるでしょう?ピーマンを乗せることは難しいことではありませんよ。」と友人が日本語で言うと、「申し訳ございません、規則でして…」

友人のピザにピーマンが乗せられることはなかった。

トリュフを乗せてくれと言ったわけではない。ピーマンだ。

費用計上に影響してしまうという言い訳は立たない。なぜなら友人はピーマンの分を上乗せして払うと言っているのだから。

ピーマンを乗せることがそんなに難しいことなの?!と友人は半ば怒り気味だったが、友人の怒りはごもっともだ。

むろん私と友人は二度とこの店には来ないと誓ったが、このレストランだけでなく、たとえばパスタを注文して「○○を抜いてほしい」とリクエストをしたところで、対応してくれる店がどれだけあるだろうか。

カスタマーサービスやおもてなしに定評のある日本だが、こと規定外の注文になるとほぼ対応不可能となる。フレキシブルな対応ができないのだ。

返品は、たとえタグがそのまま付いていて、店員が覚えていたとしても、領収書がない限り、受け付けてもらえないだろう。

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以上、日本にひさしぶりに帰国してハッとした日本の非常識な面を自分の体験から述べてみた。

不思議なことに、ずっとその環境にいると、慣れてしまうため、何も思わなくなるのだ。したがって、私がこのまま日本に滞在し続ければ、上記に述べた「非常識さ」も「日本の常識」になってしまう。「ふーん…まいっか」という事なかれ主義病に罹ってしまうのだ。そのため、日本に来たばかりの時にこの記事を書く必要があった。

アメリカ人の旦那もアメリカ人の友人は、たとえ些細なことであっても、自分が納得できないこと、理不尽だと感じることがあったら、必ず声をあげる。私の知人だけではなく、アメリカ人全体がそうなのだ。

時には「(面倒くさい人扱いされちゃうから)もういいよ、行こう」と私の事なかれ主義病を移そうとするも、全く効き目がない。また驚いたことに、声を上げられた方のアメリカ人や周囲の人たちも、それを「面倒くさい」とは思わないのだ。些細なことであっても面倒扱いせず、一人ひとりの声を聞こうとする姿勢がある。彼らのこの姿勢は、日本人である私が学ぶべき点であり、決して忘れてはならない姿勢なのだ。

もちろんアメリカにも非常識な面がある。今度はアメリカの非常識な面についても述べて行こう。しかし、日本に暫くいてから戻った時じゃないと、アメリカの非常識さも「アメリカの常識」になってしまい、記事は書けなくなってしまうかもしれない。